2019年2月16日土曜日

2019年02月10日 小金井福音キリスト教会 説教題「 勝利を告げる声 」

2019年02月10日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・ヨシュア記 第6章 12節 - 21節
・ルカによる福音書 第19章 37節 - 40節
・使徒行伝 第4章 24節- 31節

説教題「 勝利を告げる声 」




さて今日の説教箇所の中心となる使徒行伝424節から31節は41節から始まるペテロとヨハネの物語の結末の部分となる箇所です。

 このペテロとヨハネの物語は、二人がエルサレムにある神殿の中にある「美しの門」と呼ばれる門のところで物乞いをしていた生まれつき歩くことができなかった人をイエス・キリスト様の名によって癒し、歩けるようにしてあげたことから始まります。
  みなさん、「イエス・キリスト様の名によって歩けるようにした」ということは、イエス・キリスト様のご人格とイエス・キリスト様の権威がこの人を歩けるようにしたと言うことです。ペテロとヨハネは、そのことをこの神殿の「美しの門」の前でなされた癒しの出来事を見ていた人たちに語り聞かせるのです。そして、このイスラエルの民が十字架に付けて殺したイエスいうお方こそが、旧約聖書が預言し、イスラエルの民が待ち望んでいた「油注がれた王」であり「モーセの再来である預言者」すなわちキリストであると高らかに告げ知らせるのです。
 ところが、この一連のペテロとヨハネの言動が、当時のイスラエルの民の指導的立場にあった役人や長老、あるいは律法学者や大祭司と言った民の中で権力を握っていた人たちから疎んじられます。それは、ペテロとヨハネが、イエスというお方がキリストであると宣言するだけでなく、そのイエス・キリスト様をあなたがたイスラエルの民は十字架に付けて殺してしまったが、神がそのお方をよみがえらせたと述べ伝えていたからです。

 このペテロとヨハネ、あるいはイエス・キリスト様の弟子たちの述べ伝えていた宣教の言葉は、役人や長老、律法学者や大祭司たちの誤りを厳しく糾弾する言葉であったと同時に、それまで、役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちによって保たれていた秩序を崩壊させ、イエス・キリスト様によってイエス・キリスト様を王とする新しい秩序、すなわち神の国がもたらされたと言うことを述べ伝える言葉だったからです。
 だから、役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちは、それで、ペテロとヨハネを捕らえ、これ以上彼らが述べ伝えていたことが広がらないようにと力ずくで脅してでも彼らを黙らせようとするのですが、ペテロもヨハネも、役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちの脅しに屈しないのです。
 結局、ペテロもヨハネも釈放されることになる。それはすでに、多くの人々がペテロとヨハネの言動によって神を崇めていたからです。だから、もはや彼らを罰するすべがなかったのです。そして、ペテロもヨハネも釈放され、仲間たちのところに戻って来る。そして、役人や長老、律法学者や大祭司に捕らえられ、彼らの前で弁明を求められた一連のいきさつを話すのです。その結果何が起こったのかが、先ほどお読みいただいた今日の説教の中心箇所である使徒行伝413節から3節に記されているのです。

 みなさん、ペテロとヨハネから、役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちによって捉えられ、「これ以上イエス・キリスト様の名によってかたってはならない」と脅されました。しかし、それにもかかわらず

神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか判断しもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを語らないわけにはいかない。(使徒419節)

といって、権力者たちの脅しを完全に退けたのです。 
 この、ペテロとヨハネが語らないわけにはいかないといった「自分の見たこと聞いたこと」とは、彼らが目撃したイエス・キリスト様が復活し、天に昇って行かれた(使徒16-11)という出来事であり、また復活したイエス・キリスト様が40日に渡って弟子たちに現れて教え語られた神の国についての事柄(使徒13節)であろうと思われます。
このように、ペテロとヨハネは、役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちが二人を捕らえ、脅すことはできても、その脅しに屈せず、これらから「イエス・キリスト様のよみがえりの出来事とイエス・キリスト様によってもたらされた神の国について語ることを辞めない」と宣言するペテロとヨハネを罰することも出来ず、こうして釈放するしかなかったという出来事を聞いて、神の崇めこう言うのです。使徒行伝424節から26節です。そこにはこうあります。

24天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。 25:あなたは、わた したちの先祖、あなたの僕ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、「なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、もろもろの民は、むなしいことを図り、 26:地上の王たちは、立ちかまえ、支配者たちは、党を組んで、主とそのキリストとに逆らったのか」。

みなさん、ペテロとヨハネに起こった役人や長老、律法学者や大祭司といった権力者たちに捕らえられ、尋問を受け、脅されたにもかかわらずそれを拒んでも罰せられることもなく釈放されたという一連の出来事を聞いた人々は、神に敵対し神を退ける者や王や支配者と言ったこの世の権力者ですら、もはやイエス・キリストを退けることはできないとそう言うのです。そこには、イエス・キリスト様とイエス・キリスト様が十字架の死に至るまで神に従順に従い抜いた信実な信仰によってもたらされた神の国が「この世」に対しえ勝利したのだという確信が見られます。

 この確信は、使徒業伝2章に記されているあのペンテコステの出来事によって天から下された聖霊なる神によってもたらされた確信です。そうですみなさん。聖霊なる神は、私たちの内にある神を信じる信仰に確信をもたらしてくれるのです。
 その聖霊なる神がもたらす確信が、あの最も原初の教会い集っていたイエス・キリスト様の弟子たちに力を与えたのです。だからこそ彼らは、

29:主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。 30:そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい

といって、大胆に神の言葉を語り出すのです。そこには、十字架の死に至るまで従順に神に従い抜いたイエス・キリスト様の信実な信仰に倣い、神に聞き従って生きようとするイエス・キリスト様の姿がある。そして、十字架の死に至るまで従順に神に従い抜いたイエス・キリスト様の信実な信仰が、「この世」という罪と悪が支配する世界に勝利したように、神に聞き従って生きる者と、そのように神に従って生きる者が神に呼び集められて築き上げていく「イエス・キリスト様の体なる教会」もまた、「この世」に勝利するのだと信じ生きる教会の姿があります。

 そうですみなさん。私たちに神の言葉に耳を傾け、神の言葉に聞き従て生きて行こうとする姿勢があるならば、私たち「キリストの体なる教会」は必ず罪と死とが支配する「この世」の支配に打ち勝つことができるのです。
 とは言え、現実の世界に目を向けますと、とても「この世」に勝利したと思えないような出来事があることも否定し難いことです。あの役人や長老、律法学者や大祭司たちが罰しきりれなかったペテロやヨハネも、ペテロはローマ帝国によって殉教の死を遂げ、ヨハネはパトモス島に流刑されると言う苦難に会いますし、「イエス・キリスト様の体なる教会」もまた、「この世」に勝利するのだと信じ生きた教会も多くの試練や迫害に合うのです。

 そして、今という時代に目を向けても、多くの苦しみや悲しみや試練と言ったものが神を信じる民の上にも起こって来るのも事実その通りなのです。いったい、イエス・キリスト様による「この世」に対する勝利というものがどこにあるのかと疑いたくなるような出来事がキリスト者ひとり一人に、また教会の中に起こって来る。
 しかし、みなさん。私たちがイエス・キリスト様が私たちの人生に、そして「イエス・キリスト様の体なる教会」に罪と死が支配する「この世」に対する勝利をもたらすと言うことを信じ、声を上げて語り続けるならば、必ず、それは訪れる。
 さきほど、司式の兄弟に使徒行伝423節から3節の御言葉と共に、旧約聖書ヨシュア記612節から21節の御言葉をお読みいただきました。

 この箇所は、有名なエリコの城壁が崩れ落ちたと言う出来事を記した箇所です。エリコと言う町は、死海の北西部に位置する死海に流れ込むヨルダン川の河口から15kmほどのところにある街で、城壁に囲まれた難攻不落の都市でした。そのエリコの街をイスラエルの民が奴隷として捉えられていたエジプトを脱出して、カナンの地にやって来て最初に攻め落としたのです。

 そのとき、イスラエルの民は何か強力な武器や戦略をもってエリコの街を攻め落としたのではありません。ただ、

2見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている。3:あなたがた、いくさびとはみな、町を巡って、町の周囲を一度回らなければならない。六日の間そのようにしなければならない。4:七人の祭司たちは、おのおの雄羊の角のラッパを携えて、箱に先立たなければならない。そして七日目には七度町を巡り、祭司たちはラッパを吹き鳴らさなければならない。5:そして祭司たちが雄羊の角を長く吹き鳴らし、そのラッパの音が、あなたがたに聞える時、民はみな大声に呼ばわり、叫ばなければならない。そうすれば、町の周囲の石がきは、くずれ落ち、民はみなただちに進んで、攻め上ることができる(ヨシュア記62-4節)。

 と言う神の言葉に従って、イスラエルの民は一日一回、朝早くエリコの街の周囲をぐるっと隊列をつくってラッパを吹き鳴らしながら一周するだけ。それを六日間続けるのです。そして7日目には7度エリコの町の城壁の周りを巡り歩き、7週目にラッパを吹き鳴らし、大声を上げて呼ばわっただけなのです。それだけでエリコの街を難攻不落の城塞としていた城壁が崩れ落ちたのです。
 彼らは、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている」という神の言葉を信じ、神の言葉に従って声を上げただけなのです。彼らは、勝利を約束した神の約束を信じて声を上げた。

 みなさん、イスラエルの民が難攻不落と思われるエリコの街を攻め落とすことは、この神の約束に対する信頼、つまり神の約束に対する信仰がもたらしたものです。神が約束した出来事は必ず実現すると言う神の約束に対する信頼があの城壁を崩したのです。
 現実を見れば、とてもその周りをぐるぐると歩き廻り大声を上げるだけでは城壁は崩れ落ちそうにはない。とても勝てそうもないのです。しかし、神が約束をし、神がその約束を言葉として発したときに、その約束は出来事となるのです。だから、私たちはその神の約束の言葉を信じ、その言葉に従って生きればいい。そのことを、あのエリコの街を攻め落としたイスラエルの民の物語は私たちに教えている。

 あなたも、神の言葉が約束するところのものを信じ、神の言葉に聞き従って生きて行ってごらんなさい。そうすれば、あなたの人生に様々な試練や、難攻不落と思われる困難な出来事があったとしても、神はあなたの人生を必ず勝利の物語へと書き換えてくださるのだと、そう語りかけているのです

 みなさん、教会の歴史を振り返ってみますとあの使徒行伝41節から31節までの物語に励まされ、イエス・キリスト様の「この世」に対する勝利を信じ、イエス・キリスト様によってもたらされた神の国である「イエス・キリスト様の体なる教会」の勝利を信じて大胆に声を上げ、神の言葉を語り出した教会も、その後さまざまな試練や困難や迫害という苦難に会います。けれども、彼らはキリストにある勝利を告げらせる声を上げることを山ませんでした。声を上げ続けたのです。
 その結果、教会は、神を信じイエス・キリスト様を信じる信仰、即ちキリスト教が、313年にはミラノ勅令によりローマ帝国の公認する宗教の一つとなり、さらには392年にテオドシウス帝によってかつてはキリスト教を迫害し苦しめたローマ帝国の国教にまでなると言う出来事を見ることになるのです。

もちろん、今の時代から顧みるとキリスト教がローマ帝国の国教になったと言うことの弊害もあり、その善し悪しが問われる部分もありますが、しかし、ローマ帝国の国教となることで、キリスト教が全世界に広がっていくきっかけになったことも疑いようのないことです。実際、私たち西方教会の伝統の歴史と神学に大きな影響を与えたアウグスティヌスという人は、キリスト教が国教となったローマ帝国が来るべき神の国であると考えたほどです。それは教会が、キリストの勝利、神の国の勝利を告げる声を上げ続けたがゆえのエリコの城壁が崩れ落ちるような出来事だったのです。 
ですから、みなさん。私たちは、そして私たち「イエス・キリスト様の体なる教会」は、どんなに苦難や試練が襲ってきても、このキリストの勝利を告げ知らせる声を止めてはなりません。神の国の到来とその勝利を告げ知らせる福音の言葉を語り続けていくのです。

そうですみなさん。お読みいただきましたルカによる福音書1937節から40節までにおいて、イエス・キリスト様が子ロバにのってエルサレムに入城しようとする際に、大勢の群衆が神を賛美しつつ「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」と叫んでいるのをイエス・キリスト様に敵対するパリサイ派の人たちが止めさせようとしたときに「この人達が黙れば、石が叫ぶであろう」といって、イエス・キリスト様が、神の国の油注がれた王であり、イエス・キリスト様によって神の国がもたらされると言う神の約束は必ず実現するものであると言っておられるのです。
 だからこそ私たちは、そして私たち「イエス・キリスト様の体なる教会」は、この必ず実現する神の国の到来とこの罪と死の支配する「この世」に対する勝利という神の約束を告げ知らる声を上げ続けていく必要があるのです。
 そして、その勝利の声を私たちがあげ続けていくならば、神の国がもたらす勝利は、必ず私たちの人生の物語を神の救いの物語へと書き換えて行ってくれるのです。そのことを、聖霊なる神の助けを借りて、確信し、語り続けていくものとなりましょう。お祈りします。

2019年02月03日 小金井福音キリスト教会 説教題「 書き換えられる物語 」

2019年02月03日 小金井福音キリスト教会 説教


聖書
・士師記 第6章 11節 - 16節
・ヨハネによる福音書 第9章 1節 - 7節
・使徒行伝 第4章 13節 - 22節

説教題「 書き換えられる物語 」



今日の礼拝説教の中心となる聖書個所は、使徒行伝413節から22節までです。この箇所は、お読みいただいたようにイエス・キリスト様の弟子であるペテロとヨハネが、役人や、長老、また律法学者や大祭司といった、いわばイスラエルの民の中の権力者を前でおこなった弁明に対して、その場に居合わせた人々の反応を記した箇所です。
 この弁明は、エルサレムにある神殿の中にある「美しの門」の前で物乞いをしていた生まれつき足が利かず歩けなかった人を「イエス・キリストの名によって」癒し、歩けるようにして挙げた出来事について語った説教の内容に関するものです。そして、誰もその弁明に対してかえす言葉がなく、役人や長老、また律法学者や大祭司は、ふたりに議会から退場するように命じてから、互に協議を続けた(15節)と聖書は言うのです。そしてて16節にありますように、

16あの人たちを、どうしたらよかろうか。彼らによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全体に知れわたっているので、否定しようもない。 17:ただ、これ以上このことが民衆の間にひろまらないように、今後はこの名によって、いっさいだれにも語ってはいけないと、おどしてやろうではないか」。

と言うのです。みなさん、脅すというのは尋常ではありません。脅してでも黙らせとうとするのは、よっぽど、ペテロやヨハネが語り伝えていたことが、役人や、長老、また律法学者や大祭司といったイスラエルの民の中の権力者たちにとって都合の悪い事だったということです。

ところがペテロとヨハネとは、ひるむことなく、逆に「19神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。20:わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」と言って、その脅しを敢然と退けるのです。
 みなさん、この使徒行伝の413節から22節の記述には、いくつかの物語の書き換えということがあります。物語の書き換えと言っても聖書の出来事が書き換えられたということではありません。むしろ物語の意味というものが、新しく語り直されているという意味で、物語が書き換えられているというのです。 
 それは、第一に罪びとの物語が聖なる者の物語となる書き換えです。そして第二には、弱い人の物語が強者の物語へと書き換えられる物語の書き換え。そして、第三には、過去の物語の書き換えです。
 そこで、第一の罪びとの物語が聖なる者の物語となる書き換えですが、それは、まさにペテロの弁明の中に見ることができます。それは、10節、11節の言葉の中に現れている事柄です。そこのはこう書かれています。

 10:あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。 11:このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。

「生まれつきあることができない人が歩くことができるようになったのは、人へにあなたがたが神に反逆する罪びとだと言って退けたイエス・キリスト様の信仰と権威によるものだ。このおかたこそ、神の民イスラエルの王国がよって立つ土台、つまり油注がれた王であり、大祭司であり、預言者なのである」。ペテロは、11節の「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである」という言葉を通して、そのように主張する。
 みなさん、イエス・キリスト様はローマ帝国に謀反を企てる政治的大犯罪人であるというのが、役人や、長老、また律法学者や大祭司がローマ帝国に対して描いたイエス・キリスト様の罪びととしての物語です。そして、同じように彼らは、イエス・キリスト様は神を冒涜する宗教的罪びとであるとして、イスラエルの民に罪びととしての物語を描いて見せた。

その役人や、長老、また律法学者や大祭司が描きだす罪人としてのイエスの物語を、ペテロは、「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである」という言葉をもって、聖なる神の子・聖なる油注がれた王であるキリストの物語に書き換えるのです。 
そして、この罪びとの物語を聖なる者の物語へと書き換える書き換えは、イエス・キリスト様の物語です。しかし同時に、このイエス・キリスト様の物語は、イエス・キリスト様につながり、洗礼によってイエス・キリスト様と一つに結ばれ、イエス・キリスト様を頭(かした)とし、そのかしらなるキリストの手足として体なる教会の一員となり、教会を築き上げているキリスト者の物語ともなって、罪びとである私たちを聖なる神の民とする物語の書き換えともなるのです。 
みなさん、この物語の書き換えは、十字架の死に至るまで神に従順であられたイエス・キリスト様の信実な信仰によって起こるものです。だからこそ、洗礼を受け、キリストの体なる教会に繋がるということは、私たちにとって大切なことであり、大きな意味ある価値あるものなのです。

 第二の点です。弱い人の物語が強者の物語へと書き換えられる物語の書き換えということです。

 みなさん、今日の聖書朗読箇所の使徒書の箇所である使徒行伝413節には、「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った」とあります。
 ペテロとヨハネとが無学なものであるというのは、ある意味当然です。彼らは、漁師ですから、律法学者や大祭司たちのような信仰や旧約聖書に関する専門的な知識を持っていようはずがない。そのペテロとヨハネが大胆に(最も新しい翻訳の新共同訳聖書では「堂々と」)旧約聖書を解き開きながらイエス・キリスト様が旧約聖書に預言された油注がれた王であり、モーセに匹敵する預言者であるというのです。そして、そのイエス・キリスト様の御名、つまり権威によって、足の悪い人を癒しているのです。そこには、無学な者の物語が知恵ある者の物語に書き換えが起こっている。

 しかも、それがペテロとヨハネによって、堂々とイスラエルの民の信仰と聖書に関する権威者たちでもある役人や、長老、また律法学者や大祭司の前で語られるのです。 
昔、ダクラス・グラマン事件という汚職事件で国会に証人喚問された海部八郎(かいふはちろう)という人が緊張と恐れで手が震えて証人の署名が書けなかったということがありましたが、権威者たちの前で、自らの弁明をするということは、それほど緊張することなのです。

 ところがみなさん。ペテロとヨハネは、イスラエルの民の中の権威者たちの前で、
緊張することなく、むしろ大胆に「あなたがたが十字架に架けて殺したイエスというお方こそが、神が旧約聖書で予言していたキリストなのだ」と堂々とその論を展開する。そして、「イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬ」と脅されても、いっさいひるむことなく、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。 わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」と言って一歩も引かないのです。

 みなさん、あのペテロとヨハネとがですよ。イエス・キリスト様が裁判にかけられとする時、三度も「私はイエスなどという人は知らない」と言ってイエス・キリスト様を裏切ったペテロ。またマルコによる福音書14章では、イエス・キリスト様が捉えられそうになった時、裸で逃げ出したのはこのヨハネであると言われる。そのような弱々しいペテロとヨハネが、ここでは力強い者として描きなおされているのです。
 それは、彼らが聖霊に満たされていたからだと聖書は使徒行伝の48節で言っている。そこにはこうあります。

 その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たち 
よ」。

 そうです皆さん。ペテロは聖霊なる神に満たされることで、大胆に、堂々と語ることができたのです。聖霊なる神がペテロの内に在ってペテロと共にいる。このことが弱々しいペテロの物語を大胆で力あるペテロの物語へと書き替えて行くのです。

 同じような事例は、旧約聖書の中にも見られる。それが先ほどお読みいただいた士師記6章にあるギデオンの物語です。ギデオンは、神からイスラエルの民のリーダーとなって、イスラエルの民を襲い虐げているミディアン人から救い出せという使命を受けます。 
 ところが、ギデオンは「ああ主よ、わたしはどうしてイスラエルを救うことができましょうか。わたしの氏族はマナセのうちで最も弱いものです。わたしはまたわたしの父の家族のうちで最も小さいものです」と言ってしり込みするのです。いわばギデオンもまた一人の弱い存在なのです。
 そのギデオンが、「神が共にいてくださる」という確証を得ると、しり込みしていたイスラエルのリーダーである士師となり、弱小であったイスラエルの民を率い、強者であるミディアン人に勝利する。ここには、弱者の物語が強者の物語に書き換える物語の書き換えがある。そして、そのカギになるのが、神が共にいるということなのです。

 みなさん。新約聖書ローマ人への手紙831節には「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」という言葉がありますが、神は私たちと共にいてくださるお方です。そして、その神と共に私たちが生きて行くならば、私たちの人生の物語は弱者の物語から強者の物語に書き換えられている。聖書はそう私たちに語るかけているのです。第三の点に行きましょう。過去の物語の書き換えということです。

 今日の聖書個所は使徒行伝31節から10節までにある、ペテロが神殿の門の前で物乞いをしていた歩けなかった人に「金銀は私にはない。私にあるものを上げよう。イエス・キリストの御名によって歩きなさい」と言って歩けるようになったというの出来事を起点として展開した物語の一部です。

 このような癒しの物語は、聖書の中に数多く出てきますが、この使徒行伝31節から10節にあるイエス・キリストの御名に基づく癒やしに非常によく似ているのが、先ほどお読みいただいたヨハネによる福音書91節から7節にあるイエス・キリスト様の癒しに記事です。
 この記事では、イエス・キリスト様が生まれつき目の見えなかった人を癒すという出来事ですが、この癒しの出来事を通して、イエス・キリスト様はこの癒しについて短く語り、そののちこの癒しの出来事に関して当時の宗教的権威の一つであったパリサイ派の人々から尋問を受けるという構造的にも類似した癒しの出来事です。

 この目の見えない人の癒しの出来事においてイエス・キリスト様が語られた言葉は、弟子たち「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」という問いに答える形でなされます。
 「目が見えない」。このことは、罪の結果起こることである。というのがこの当時のイスラエルの民の発想です。だから、弟子たちは「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と問うのです。死土居質問です。でも、誰もがそう思っている。だから聞くのです。そしておそらく、周囲も、そしてこの「生まれつき目の見えなかった人」も、この「目が見えない」という現実は誰かの罪の結果であると思っていた。
 そのような中で、ただ一人、イエス・キリスト様のみが、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」といって、この「生まれつき目の見えない人」を癒すのです。そこに喜びの出来事が起こる。

 みなさん、この時、イエス・キリスト様は、この人の目が見えないという、「今、ここで」の現実を癒すと同時に、この人の過去の物語を書き換え、この人の過去をも癒すのです。
この人は、確かに癒されました。しかし「目が見えなかった」という過去の事実は変わらない。それが、本人の罪、あるいは両親の罪であると思い続けるならば、その過去は悲しい歴史です。そして、確かに「目が見えなかった」という過去は悲しい過去なのです。
 しかし、イエス・キリスト様は、この人の目が見えなかったことは「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」といって、罪のためと考え思い描いていた悲しい物語を、神の栄光のためという喜びの物語の一部へと書き換えていくのです。
 それは、この「美しの門」の前で物乞いをしていた人も同じです。生まれつき足が悪く歩けない。だから物乞いをして生活を成り立たせている。それは彼にとって悲しい、そしてみじめで切ない物語でした。しかし、その物語も今や喜びの物語となり、神の栄光を表す物語となっている。そして、この歩けなかった人は、その物語を人々の前で証し、役人や、長老、また律法学者や大祭司の前で自らの存在を通して証しているのです。

 みなさん。人間の人生、私たちの人生には、何らかの悲しい物語、苦しみの物語があったりするものです。誰もがそのような物語を持っているのかもしれない。あなたにあるかもしれない。でも、その過去の物語も、イエス・キリスト様につながり生きるならば、もはや悲しい物語としてではなく、喜ぶ物語の一部として書き換えられるのです。
 それは、イエス・キリスト様の十字架の死という悲しく、辛く、苦しい物語が、神によって蘇らされるという出来事に結びつくことで、悲しみと苦しみと辛い物語が、よみがえりという喜びの物語の一部となり書き換えられるからです。
 みなさん。どうか知ってください。イエス・キリスト様に結び付けれた者、洗礼を受けイエス・キリスト様と一つとなり、キリストの体なる教会の一員となり、キリストの体なる教会を築き上げている私たちは、私たちの人生の物語の全てを、神によって神の聖なる物語、イエス・キリスト様の聖なる物語として書き換えられるのだということを。お祈りしましょう。