2018年10月14日日曜日

18年10月14日 説教「約束の御霊の到来」

2018年10月14日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書箇所
・ヨエル書 2章 28節~29節
・ヨハネによる福音書 14章~17節 25節~26節
・使徒行伝 2章 1節~4節
説教題 「 約束の御霊の到来 」


 今日の礼拝説教の箇所は使徒行伝2章1節から4節までです。この箇所は、イエス・キリスト様が約束してくださっていた聖霊なる神が、弟子たちのところに下ってきたという、いわゆるペンテコステの出来事を記している箇所です。ペンテコステは、クリスマスとイースターと並んで三大祝祭の一つに数えられる非常に重要な祝祭ですが、それが五旬節と呼ばれる日に起こった。

 五旬節というのは七週の祭りとも呼ばれ、過ぎ越しの祭りが終わってから50日目に行われるお祭りです。ヘブル語ではシャヴオットという収穫を祝い感謝するいわゆる感謝祭です。私たちの国では、農作物の収穫というとお米の収穫をイメージするからでしょうか、秋を連想しますが、イスラエルの小麦の収穫期は春に向かえますので、5月ごろに収穫を祝うお祭りがあってもイスラルの民にとってはおかしくはないのかもしれません。
 
この五旬節は、収穫感謝祭であると同時に、モーセによってエジプトを脱出したイスラエルの民に、神がシナイ山で律法を与えたことを記念する祭りでもあります。この律法授与の出来事は、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出した過ぎ越しの出来事から50日目に起こりました。ですから、その出エジプトの出来事を祝う過ぎ越しの祭りから50日目にイスラエルの民に律法が与えられたことを記念するのです。
 そのシャヴオットと呼ばれる五旬節をペンテコステというのは、ギリシャ語で50をペンテコステ(Πεντηκοστή)というからです。そのペンテコステの日に聖霊なる神がイエス・キリスト様の弟子たちのところに下って来たのです。

 この聖霊なる神が弟子たちに与えられるということは、既にイエス・キリスト様によって約束されたことでした。それが、先ほどお読みいただいたヨハネによる福音書の14章16節、17節です。そこにはこう書かれています。15節からお読みします。

         15:もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきであ
     る。16:わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつま
  でもあなたがたと共におらせて下さるであろう。17:それは真理の御霊である。この世
  はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あ
  なたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなた
  がたのうちにいるからである。

 ここでイエス・キリスト様は「父は別に助け主を送って、あなたがたと共におらせるであろう」と言っておられます。「別に助け主を送る」というのは、イエス・キリスト様というお方とは別の助け主である真理の御霊を送ると言われている。

 聖霊が下るという出来事は、みなさんもご存知のように、イエス・キリスト様の洗礼の出来事の時にも起こったことです。ルカによる福音書3章21節から22節までを見てみましょう。

   さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈ってお
      られると、天が開けて、 22:聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そし
      て天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

ここでは、神の御霊である聖霊なる神が鳩のような姿をとってイエス・キリスト様の上に下ったとあります。そしてそのとき、天がから「これはわたしの愛する子、私の心にかなう者である」という声がしたとあります。この天からの声は、イエス・キリスト様の語る言葉や行いはすべて神の御心にかなっているということを宣言する言葉です。それは、まさに神のひとり子なるお方が、受肉し、人となられたからです。だから、このお方の言葉と業は神の御心にかなっているのです。
 ですから、イエス・キリスト様の言葉を聞き、この方のなされることを模範とし、このお方に倣って生きるならば、私たちは決して神の前に誤まることなく歩んでいくことができます。つまり、イエス・キリスト様ご自身が、私たちを教え導く助け主なのです。

しかし、イエス・キリスト様が天に昇られた後の時代は、キリストのからだである教会がその働きをしなければなりません。それは、今も同じです。教会はキリストのからだとして人々に神のお心を語り、神のお心にそった業を行っていかなければなりません。そして、それはイエス・キリスト様が「今、ここで」生きておられたならばなさるであろうことを行うのです。
 そういった意味では、今も私たちはイエス・キリスト様に倣って生きる者でなければなりません。なぜならば、イエス・キリスト様のからだなる教会は、私たちひとり一人によって作り上げられるものだからです。だから、私たちひとり一人はイエス・キリスト様に倣って生きるひとり一人であることが大切なことなのです。
 それは、長い教会の歴史の中で、繰り返し繰り返しかたれてきたことです。今週末、私はある事柄について調べていました。それは、クリスチアニタス(Christianis)ということについてなのですが、このクリスチアニタスというのはラテン語です。英語ではChristendomと訳されますが、日本語ではキリスト教一体化社会といった風に訳されたりしますが、要は「キリスト者の集団」ということです。

 しかしそれは、単なる「キリスト者の集団」ではなく、「真のキリスト者の集団」ということです。そしてこの真のキリスト者のというのは、私たちひとり一人が神の似姿になるように努め生きているクリスチャンのことを指しています。平たくいうならば、イエス・キリスト様のように生きるように努めている人たちのことです。
 このように、イエス・キリスト様のように生きようとする人たちは、古代教会から存在しました。それは「慈悲の業」を通して、イエス・キリスト様の「隣人愛」を行おうとしたり、10世紀から11世紀の中世には「キリストの人性」への信心といって、レクティオ・デヴィナと呼ばれる聖書や霊的な書物を読む習慣を通して、イエス・キリスト様のように生きようとする修道士たちがいたり、中世後期の15世紀には、近代的敬虔と呼ばれる運動において「キリストに倣う」ということが盛んに言われたりしました。

 これらは、みんなイエス・キリスト様が「この世」で生きられたように、神と人の前で、聖く、隣人愛に満ちた生き方をしたいと願い、聖書を学び、自らを修養するといった信仰の霊性を高めようとする運動でした。そして、そのような流れをクリスチアニタスと呼ぶのです。それは、イエス・キリスト様が私たちの教師であり、導き手だからです。

 けれどもみなさん、私たちはイエス・キリスト様と全く時代背景と価値観の中に生きています。そのような中で、イエス・キリスト様なら「今、ここで」なされることを行おう、語られることを語ろうと思っても、それはなかなか大変なことです。
 例えば、私は牧師として教会にずっといます。みなさんは平日の教会のことはあまり知らないだろうと思いますが、実は、平日の教会にはいろんな人が訪ねてきます。そのような中には、食べ物を求めてくる人もいますし、お金が貸して欲しいと言って来られる方もいます。そんな時、どう対応したらよいか本当に迷います。食べ物を求めてくる人には、対応しやすいのですが、お金を貸してほしいという人の対応には本当に悩みます。

と申しますのも、お金を貸してほしいという人の多くが、お酒を飲むためや、遊興に使うためであったりするからです。もちろん、本当に困っている人が全くないというわけではないでしょう。だから、イエス・キリスト様ならどうするだろうか、実に迷うところですし、実際、本当に難しい判断です。
 ですから、常にイエス・キリスト様にあなたならどうなさいますかと問わざるを得ないのです。イエス・キリスト様の「隣人愛」に生きると言っても、求められるままにお金を差し上げることが「隣人愛」なのかどうかも問われます。その中で、きっと正しい判断もあるでしょうし、間違った判断もあったかもしれない。そのように、イエス・キリスト様のように生きると言っても決してそれは簡単なことではないのです。
 だからこそ、私たちの導き手であり、慰め主であり聖霊なる神様が必要なのです。私は、先ほど申しましたように、「お金を貸してください」言ってこられた方に対応した後は、お金を渡したときもお断りしたときも、しばらく、本当にあの対応でよかったのかを考えると、苦しく、心が重くなる。そんな時に、本当に慰め主なる助け主が必要です。主なる神様の前に、判断を誤ったか正しかったかわかりませんが、慰め主である聖霊なる神様の支えが必要です。そして、できるかぎりイエス・キリスト様の生き方に近づきたいのです。

みなさん、受肉して人となり、神の御心にかなうお方として「この世」で生きられたお方はイエス・キリスト様の他にはいません。そして、このイエス・キリスト様というお方を知る術は聖書以外にはないのです。聖書のみがイエス・キリスト様に近づく唯一の道なのです。
 その聖書を学び、聖書を通してイエス・キリスト様のご人格に触れ、このお方が語る言葉を語り、このお方がなされる業を行うためには、私たちを導いてくれる助け主が必要です。みなさん、私たちホーリネス教団がよって立つ信仰の根源を突き詰めていくと、イギリス国教会のジョン・ウェスレーという人に行きつきます。このウェスレーという人は、聖霊は道案内人(ガイド)であると言いました。
 それは、聖書学的な正しさに導くガイドというのではなく、「今、ここで」という時にどうすればよいかを聖書の言葉を用いながら導いてくださる助け主であるということなのです。その聖霊なる神様が下ってこられたのがペンテコステの出来事であり、私たちにも、その聖霊なる神が与えられているのです。

 実は、先日、私どもの息子が、今日の聖書個所における聖霊なる神が弟子たちに下った出来事と先ほどのイエス・キリスト様の洗礼の際にイエス・キリスト様に聖霊なる神が下った出来事を比較して、「なぜ、イエス・キリスト様のところに下った聖霊は鳩の様だったのに、ペンテコステで弟子たちに下った聖霊は舌のようなものだったのか」と聞いてきました。

 そう尋ねられると、なるほどどうしてなのだろうかと考えさせられる問題ですし、実際それまで、そのようなことは考えたこともありませんでした。しかし、考えてみますと、聖書は実に様々な象徴的な表現をします。
 イエス・キリスト様が天に上げられたという昇天の出来事も、天に昇るという行為が、イエス・キリスト様が父なる神の下に帰って行かれたということを示す象徴的な行為でした。また、聖霊なる神様が、イスラエルの民を神の民として教え導く律法がイスラエルの民に与えらたことを記念する五旬節の日が満ちたその日に与えられたというのも、まさにイエス・キリスト様が

   15:もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきであ
  る。16:わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまで
  もあなたがたと共におらせて下さるであろう。

と言われたように、私たちがイエス・キリスト様のいましめを守るために、聖霊なる神が、私たちを教え導く御方であるということの象徴となっています。だとすれば、鳩も舌も何かを象徴しているのかもしれません。だとすれば、鳩は何を象徴するのか。

 聖書には、イエス・キリスト様の「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ」(マタイ10:16)という言葉がありますが、鳩が素直なものの象徴であるならば、まさにイエス・キリスト様の上に下った聖霊は、イエス・キリスト様が神に対して素直に従い、神の心にかなうお方であることを象徴して鳩の姿として自らを現れたのかもしれません。
 
 また、ペンテコステの日に弟子たちに与えられた聖霊なる神が、舌のような形をしていたのは、まさに私たちキリストの弟子は、神の言葉であるイエス・キリスト様に倣い、イエス・キリスト様が語られた教えを語り、福音を伝え、その生き方の中にイエス・キリスト様の隣人愛を生きることで、行いを通してイエス・キリスト様を伝える「キリストの証人」となることの象徴なのかもしれません。聖霊なる神様は、そのために私たちを教え導き支えてくださるお方なのだと、自らを舌という象徴によって示されているのではないか。

 実際、先ほど旧約聖書のヨエル書2章28-29節を司式の方によんでいただきました。その箇所は、ペンテコステの聖霊なる神様が下られるということを預言した箇所だと聖書自身(使徒2:16)によって理解されていますが、そこで言われていることは、

   その後わたしはわが霊を、すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は
  預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。29:そ
  の日わたしはまた、わが霊をしもべ、はしために注ぐ。

ということであり、聖霊なる神が与えられ注がれた者は、神の言葉を語り、神の御心を伝えるものとなるということなのです。

 みなさん、イエス・キリスト様は、ヨハネによる福音書の14章16節、17節また25節、26節で、聖霊なる神様を私たちに与えてくださると約束してくださいました。そしてその約束通り聖霊なる神様が私たちのところに来た。イエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様に代わって私たちによって築き上げあれる神の王国である「キリストのからだなる教会」に来てくださったのです。
 この聖霊なる神様は、真理の御霊として私たちを導き、慰め主なるお方として私たちは支え、励ましながら、私たちひとり一人を「キリストのからだなる教会」につながるものとして、イエス・キリスト様に倣いながら神の似姿に向かって成長していく歩みを共に歩んでくださいます。そうやって、キリスト者となった私たちを、真のキリスト者としてくださるのです。

 これは、聖書の約束であり、イエス・キリスト様の約束なのです。ですから、この約束を信じ信頼して、イエス・キリスト様にように生きる者とさせていただきましょう。それこそが、真のキリスト者となり、真にキリストの証人になるということなのです。
お祈りしましょう。

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