2019年9月6日金曜日

2019年09月01日 小金井福音キリスト教会 説教題『教会の本質』

2019年09月01日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 ・民数記 第20章2~13節
 ・マタイによる福音書 第16章13~20節
 ・コリント人への第一の手紙 第12章12~27節

【説教題】
 『 教会の本質 』
19.9.1 9月第1主日創立記念礼拝式説教「教会の本質」            2019.9.1
旧約書:民数記202節~13節(旧約聖書pp.215-216
福音書:マタイによる福音書1613節~20節(新約聖書p.246
使徒書:コリント人への第一の手紙1212~27(新約聖書(pp.271-272)

 201691日に三鷹キリスト教会とキリスト信愛会小金井教会の統合が正式に認可され、小金井福音キリスト教会としての歩みが始まって丸3年が経ちました。ですので。今日は、その小金井福音キリスト教会の4回目の創立記念礼拝になります。
 この創立記念礼拝を迎えるにあたり、もちろんそれだけではないのですが、ここ数週間、私は教会ということについて、いろいろと考え、想い巡らしてきました。私が、考え、想い巡らすという時、それは大体において神学的な思考に入っているときであり、今回も。「教会とは何か」という、神学用語で言うならば教会論について思い巡らしていたのです。

 普通、「教会とは何か」ということを説明する際には、教会と訳されているギリシャ語の言葉がεκκλησιαであるというところから入ります。つまり、このεκκλησιαという言葉が神に呼び集められた会衆であるという意味から「教会とは何か」が語られるのです。 
例えば、歴史上では、宗教改革の先駆者の一人であると言われるボヘミアのヤン・フスと言った人や、そのフスの影響を強く受けた英国のジョン・ウィクリフと言った人の教会論は、この教会とは、神によって呼び集められた真のキリスト者の群れであるというところから始まります。そして、現代においても、そのようなアプローチから教会を語る言葉をしばしば耳にします。そして、そこから、神に呼び集められた神の民であり教会は何をするのかが問題になります。つまり、私たちが何をするのかが問題になるのです。

もう30年以上前の話になりますが、ある牧師から、その牧師が会堂建築をしたときの話を聞きました。その牧師がいうには、教会の会堂建築をするにあたり、会堂の設計をある設計士に依頼したそうです。するとその依頼された設計士は、その牧師に、「わかりました。ではお引き受けするにあたって教会とは何をするところですか」と尋ねたというのです。そこでその牧師は、熟考した上で、「教会とは、礼拝をし、信徒と教育をし、交わりをするところです」と答えたそうです。

その話を聞いたとき、私はまだ修養生(神学生)でしたが、「なるほどなぁ」と思い、その話を聞いていました。この「教会とは何をするところですかWhat dose church  do?」という問いは、教会がなす働き、つまり教会のもつ機能のついての問いです。そして、それに対する答えとして「教会とは、礼拝をし、信徒と教育をし、交わりをするところです」という答えは決して間違ってはいない正しい答えです。 
しかし、この数週間私が考え思い巡らしていたことは「教会とは何か(What is church?ということなのです。というのも、教会という言葉がεκκλησια であり、その意味が神によって呼び集められた会衆であるとするならば、まず呼び集められる前に、呼び集められる「場」があるはずではないかと思ったからです。

 そうでしょ、皆さん、皆さんがお友達を呼び集めるときに、「おい、明日、何時に集合な」とメールを打ったとしたら、必ず「どこに集まるのか」と問い返されるでしょう。呼び集めるならば、呼び集めてくる場所がある。神は、私たちを呼び集めてくださって、そこを εκκλησια だというのならば、その呼び集めてくださったところこそが教会であり、それが教会の本質ではないか。そう思ったのです。
 では、その神が呼び集めてくださった場所とは、どこなのか。いろいろと思い巡らしながら行きついた先が、キリストの体としての教会ということです。このキリストの体としての教会ということを言葉として最も明確に、そして直的に言い表しているのは、エペソ人への手紙の12223節です。そこにはこうあります。

22:そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。23:この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

 このように、ここでは教会はイエス・キリスト様を(かしら)にいただくキリストの体であると、明確にそして直接的に言われている。しかし、私は今日の聖書朗読において、あえてこのエペソ人への手紙122節から23節ではなく、あえてコリント人への第一の手紙1212節から27を司式の兄弟に読んでいただいた。もちろん、それにはそれなりの意図があります。
それは、コリント人への第一の手紙1212節から27節には、そのキリストの体なる教会を築き上げるために、私たち一人一人が神によって呼び集められているのだということを鮮やかに表現しているからにほかなりません。まさに、コリント人への第一の手紙1212節から27節には、キリストの体なる教会と、そのキリストの体なる教会に召し集められたεκκλησιαである神の会衆、すなわち私たちクリスチャンひとり一人の結びつきが描かれている。

 そうなのです。みなさん、私たち一人一人は、キリストの体なる教会、それはすなわち、イエス・キリスト様というお方を、この世に現わし、イエス・キリスト様の業を行うために教会に呼び集められているのです。それは、イエス・キリスト様が生きられた生き方を教会がするためなのです。

 みなさん、しかし勘違いをなさってはいけません。みなさん、お一人お一人がイエス・キリスト様が生きられたように、イエス・キリスト様の生き方をするのではありません。
もちろん、私たちは、イエス・キリスト様に倣い、イエス・キリスト様のように生きようとすることは大切なことであり、尊いことです。
 しかし、私たち一人一人は不完全な者であり、欠けが多いものです。持っている才能や能力も違っている。だから、一人で完全にイエス・キリスト様と同じ業を行うとなると、それはもう大変なことです。あるいは、世界中を探せば、そのような人が数えるほどいるかもしれません。しかし、それはほとんど不可能に近いことです。
 だから、私たち一人一人は、自分ができることをもって、イエス・キリスト様に仕え、互いに欠けたるところを補いながら一つのキリストの命を持ってキリストの体を生きるのです。

 先ほど、私たちは司式の兄弟が朗読するマタイによる福音書1613節から20節の言葉に耳を傾けました。この箇所は、イエス・キリスト様がピリポ・カイザリヤ地方に行かれた時に、弟子たちに、人々が私のことを何と言っているかとお尋ねになったことが記されている箇所です。
 このピリポ・カイザリヤと言う地方はイエス・キリスト様のお姿が白く輝く姿に代わったという姿変りの出来事があったヘルモン山の南麓に広がる地域ですが、この地域にイエス・キリスト様が来られた時、イエス・キリスト様は弟子たちに、人々が自分のことをどのように言っているかについて尋ねます。
 そうすると弟子たちは、口々に「ある人々は、バプテスマのヨハネだと言っています」とか「ほかの人々はエリヤだと言い、またエレミヤあるいは預言者の一人だと言っているものもあります」と答えるのです。もちろん、それらの人々が描いているイエス・キリスト様の人物像は、的を射たものではありませんでした。

 そのような中で、イエス・キリスト様と共に過ごし、共に旅してきた弟子たちに向かて、「あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われるのです。そのイエス・キリスト様の問いに対して、ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」とそう答える。
 このペテロの答えは、イエス・キリスト様の心にかなう者でした。だからこそ、イエス・キリスト様は「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである」と言い、「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」と言われるのです。
 
 このイエス・キリスト様の答えは、ペテロに対する最大級の賛辞の言葉であることは間違いありませんが、解釈上は極めて議論があるところであり、その解釈が大きく分かれるところです。とりわけ、「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」という「この岩」の解釈がいろいろとある。

 たとえば、カトリック教会は、岩という言葉がギリシャ語では、πέτρᾳとなっており、ペテロ(ギリシャ語ではΠέτρος)に絡めて、この岩のことはペテロであると理解します。そして、そのペテロに天国の門の鍵が与えられたのだから、ペテロは他の弟子たちのリーダ-として任じられており、そのペテロの後継者がローマ法王だから、ローマ法王は他のキリスト者の誰にも勝る権限(これを首位権と言いますが)があると言います。
 これは、教皇を頂点とする階層的な教会組織を形成しているカトリック教会らしい解釈です。あるいは、ペテロの「あなたこそ、生ける神の子キリストです」という答えを、ペテロ、および弟子たちの信仰告白の言葉として捉え、教会は、私たちクリスチャンの信仰告白という「岩」の上に建て上げられていくのだという理解もあります。このようなはプロテスタント教会の多くの教会がとる解釈の立場ですが、ペテロの答えを信仰告白の言葉と捉え、そこから「岩」を信仰告白の比喩的表現と捉えるところには、いかにも、今日の改革派の教会的な捉え方です。

 このような解釈の外に、この「岩」をイエス・キリスト様というふうに理解する解釈があります。たとえば、西方教会の歴史中で最も影響力が強い神学者であるアウグスティヌスなどが、このような「ここで言われている岩はイエス・キリスト様のことだ」という解釈をしますが、このアウグスティヌスの解釈は、なかなか捨ておくことができない解釈です。というのも、コリント人への手紙101節から5節に次のように言われているからです。

   1:兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、2:みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。3:また、みな同じ霊の食物を食べ、4:みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。5:しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。

ここのおいて、教会はキリストの体というパウロは、このコリント人への第一の手紙104節でイエス・キリスト様のことを岩だ( πτρα δ ν Χριστς.)と言っている。に譬えるからです。
 この「イエス・キリスト様は岩だ」という「みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち彼らについてきた霊の岩から飲んだのである」という出来事は、旧約聖書出エジプト記171節から7節、あるいは先ほど司式者にお読みいただきましたところの民数記202節から13節にあった出来事を指しています。

この二つの箇所には、いずれも。モーセによって奴隷として苦しく辛い生活をしていたイスラエルの民が救け出され、荒野で40年間にわたって彷徨っていく中で、水がなくなってしまい、民が神に不平・不満をつぶやいたということが記されています。 
その、イスラエルの民のつぶやきは、イスラエルの民の指導者であるモーセに対する不満となり、イスラルの民の間で争いが起きた。そのとき、神は、岩から水を湧き上がらせ、渇きに苦しむイスラエルの民ののどを潤し、争いを沈めたのです。 
いうなれば、この岩から湧き上がった水は、渇きに苦しむイスラエルの民にとっては命の水となり、イスラエルの民を一つの民として結び合わせる水となったのです。その命のを湧き上がらせた岩がイエス・キリスト様だというのです。

だとすれば、ひとり一人、違った個性を持ち、賜物を持ち、そして欠けを持つ私たちを呼び集め、一つの結びあわせεκκλησιαとしての教会を建て上げる土台となる岩は、イエス・キリスト様であるということができる。だからこそ、イエス・キリスト様ご自身が「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」と言われる「岩」はイエス・キリスト様ご自身のことを指していると考えられる。

 みなさん、確かに私たちは欠けの多いひとり一人です。自分の力では自分を救うことなどできません。しかし、私たちがイエス・キリスト様という霊の岩であるお方から湧き上がる命の水、誤解を恐れず大胆に言わせてもらうならば、霊の岩から湧き上がる命の水は聖書の言葉、そして教会で語られる聖書の言葉を説き明かす説教の言葉と言ってもいい、それらに耳を傾けていくならば、私たちは、私たちを神の子、神の民として、また教会としてイエス・キリストの生き方を生きる力を得ることができるのです。


 みなさん、私たちはちょうど3年前に、共に相互的に支え合い、イエス・キリスト様のように生きるために、この小金井福音キリスト教会に、呼び集められたのです。そのことを覚えながら、神を称え、岩であるイエス・キリスト様から命の水を戴きながら、この岩であるイエス・キリスト様の上に、キリストの体なる教会を建て上げて行こうではありませんか。私たちは、そのために呼び集められているのです。お祈りします。

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