2018年11月6日火曜日

2018年11月4日 小金井福音キリスト教会 説教 「 恐れからの解放 」

2018年11月4日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書個所
・イザヤ書 第41章 8節 ~ 13節
・マタイによる福音書 第14章 22節 ~ 33節
・ヨハネ第一の手紙 第4章 11節 ~ 18節

説教題 「 恐れからの解放 」






1811月第一主日召天者・宗教改革記念礼拝説教「恐れからの解放」    2018.11.4

旧約書:イザヤ書48節から13
福音書:マタイよる福音書1422節ら33
使徒書:ヨハネ第一の手紙411節から18



 今日は、召天者記念礼拝と宗教改革記念礼拝とをみなさんと共に過ごしたいと思います。もとより、この召天者記念礼拝と宗教改革記念礼拝の二つの記念礼拝は記念する内容は違っています。召天者記念礼拝はなくなられた方を覚えつつ、死をも乗り越える深い神の恵みの中に私たちが置かれていることを感謝するためのものであると言えます。

死をも乗り越える神の恵みは、一つには記憶という形で私たちに与えられています。今、ここには教会の関係者の方々で召された方々のお写真が飾られています。このお写真の顔を見るたびに、私たちはその故人のことを思い出し、その生涯を思い起こします。そして、その思い出を語る。その思い出の中で故人とたちと深く結びつけられる。それは、死をも乗り越えて与えられている深い絆なのです。召天者記念礼拝は、その思い出を思い起こすときであります。

また死をも乗り越える神の恵みは、二つ目には約束という形で与えられている。みなさん、聖書にはイエス・キリスト様が十字架に磔にされて死なれた後、三日目によみがえられたという一見する荒唐無稽と思われる出来事が記されています。それだけではない、イエス・キリスト様を信じクリスチャンとなったものもまた、イエス・キリスト様と同じように資からよみがえる時が来ると約束されています。そして、私たち教会に集う者はその約束を信じている。召天者記念礼拝は、その約束を確認するときでもあります。

 それに対して、宗教改革記念礼拝は、宗教改革のきっかけとなった95ヶ条の提題と呼ばれる当時のカトリック教会の贖宥という考え方に反対する文書をマルティン・ルターが公にしたことを覚え、記念する礼拝です。

 贖宥と言う言葉はちょっと難しい言葉ですが、要は罪の償いということです。罪を犯したものは罪の償いをしなければならないと言うのが贖宥という考え方です。悪いことした者はひたすら神にその罪を謝罪しその罪の償いをする。それは、ある意味極めてまっとうな教えであり考え方だと言えます。ところが、そのまっとうな教えであり考え方である贖宥に、ルターという人は敢然と否を唱えたのです。

 というのも、ルターという人は、自分の罪と罪深さに真摯に向き合ったからです。自分の罪に向き合えば向き合うほど自分には自分の犯したすべての罪、それこそ大きな罪から心の中で犯した小さな罪に至るまですべての罪、中には忘れてしまって思い出せない罪もあるでしょうそんなすべての罪に対して償いをするということなど不可能です。ルターは、そのことに気づいた。
   結局ルターは、人間は、どんなに頑張っても自分の罪を償い切ることはできないのだと悟るのです。そして、イエス・キリスト様がその償い切れない罪を十字架の上で贖ってくださったのだと信じ、罪を赦す神の愛と憐れみにすがるしかないと考えた。それがルターが表した95ヶ条の根底に流れている信仰義認という考え方です。

こうしてみると、召天者記念礼拝と宗教改革記念礼拝とは、内容的には何のつながりも脈絡もないもののように思われます。しかし、実はこの二つのものは、その根底において深く結びついているのです。それは、両者とも私たちに死がもたらす恐れから私たちを解放するものだということです。

みなさん、死というものは私たちに不安を感じさせ、心を動揺させ、悲しみを与え、そして恐れを感じさせます。それは、自分自身が死ぬという出来事だけでなく、身近な人の死ぬにおいても起こる出来事です。みなさん、私はM.ルターという人は、自分自身の罪に真摯に向き合った人であったと言いましたが、実はそのようにルターが自分の罪深さに向き合った背後には、死という現実に恐れを感じていたからです。

 ルターという人は、宗教改革の中心にある信仰義認という考えに至るまでに何度かを実感する機会がありました。その一つが、ルターにとって決定的な転機となったシュットッテンハルムの高原で落雷にあった時でした。
 この落雷にあったという出来事は、ルターに大きな衝撃を与えました。それは、罪に対する神の裁きとしての死ということを強く意識させたのです。それでルターは、その出来事の後すぐにエルフルトにある修道院に入り、修道士となります。そこには、死に対する恐れがある。そして、神の裁きである死から何と救われたいと願いから、厳格な修道生活を始めるのです。

 みなさん、ルターに限らず私たち人間は、どこかで死に対する嫌悪感と恐れを感じる。だから、死というものを忌み嫌うことはあっても、決して好ましいものとして喜ぶことはありません。そして確かに死というものは決して良いものではない。それは、私たちの様々な可能性を奪ってしまうからです。だから、私たちは、命のある限り精一杯生きて行くことが大切です。私たちのたちの前にあるたくさんの可能性を断ち切ってはいけないのです。

 けれども、時おり、死というものが私たちの面前に立ちふさがり、私たちを恐れさせることがある。先ほどお読みいただきましたマタイよる福音書1422節ら33節には、イエス・キリスト様の弟子たちが、小舟に乗って湖を横切ろうとしたときに嵐にあった出来事が記されています。
 この湖はガリラヤ湖と呼ばれる湖では、確かに突然嵐が襲ってくるということがあるそうです。その嵐に巻き込まれて今にも弟子たちが乗っていた小舟は沈んでしまいそうなほどに揺れている。そこに、イエス・キリスト様が湖の上を歩いて舟に近づいてきた。そのイエス・キリスト様の姿を見た弟子たちは、幽霊だと思ったと聖書には書いてあります。

 みなさん、幽霊に、仮に出会ったとしたら、やっぱり怖いですよね。それは、幽霊は、死と生の狭間に現れ出るものだからです。幽霊は、既に死んでしまってこの世の存在ではない。そのこの世のものでない者が現れ出るとき、私たちは死というものを否応なしに感じさせられる。ましてや、嵐にあって自分自身が死んでしまいそうな場面で、幽霊を見たと思った弟子たちは、もう生きた心地はしなかったでしょう。ただただ恐れと不安が心を支配していた。

 そのような恐れと不安のただ中にいる弟子たちのところにイエス・キリスト様はやって来て、「私が、あなたがたの側にいる。だから大丈夫だ、心配しないでいい」と、そう弟子たちに語りかけるのです。

 ところが、何を思ったのかイエス・キリスト様の弟子の中でもリーダー格にあったペテロという男が「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」というのです。この言葉は口語訳聖書では「主よ、あなたでしたか」となっていますが、もとらのギリシャ語の聖書を見ますと「主よ、もしあなたでしたら、わたしに命じて水の上を歩かせてください」という表現になっています。

 そう言った意味では、このペテロという男は、完全に安心しきっていない信じきれない思いがある。それでもペテロは、イエス・キリスト様が来なさいという言葉に従て、イエス・キリスト様に向かって歩き出すのです。すると、彼もまたイエス・キリスト様のように水の上を歩くことができた。ところが、歩き始めたペテロは、吹き荒れている強風をみると、再び怖くなって沈み始めたのです。

 私は、この物語を読みつつ、私自身のことを思い出していました。それは数年前に勝浦に出かけたときのことです。勝浦には、岬から少し離れたところに、海の中の様子が見える海中展望台がある。そこには岬から出ている一本の橋を渡っていくのですが、その橋は海面から5メールか10メートルぐらいの高さがある。実は私は高いところが大の苦手です。でも、せっかく来たのだからと展望台を目指してその橋を歩き出した。しかし、怖いものは怖いのです。だから、下を見ないように真っ直ぐ目標の展望台だけに焦点を合わせて歩いていた。ところが、見なければいいのに橋の真ん中あたりで、目線が少し下を向いてしまったのです。すると、とたんにずっと下の方にある海面が目に入ってきてしまい、その習慣、足がすくんでしまったのです。そして歩けなくなってしまった。

 ただ一つに目標を定め歩いているときには、高さと私を恐れさせるものを感じることがなかったのに、その目標からほんのちょっと目をそらして、「高さ」といったものを意識したとたん、恐れと不安が私の心をとらえて、歩けなくなってしまったのです。

 この新約聖書マタイによる福音書14章で描かれたペテロの姿は、まさにその時の私の姿に重なって見えたのです。それこそ、自分が置かれている状況には、恐れを感じさせるものが一杯ある。強風や荒れ狂う波といった不安材料や恐れるものが一杯ある。イエス・キリスト様は、そのような中にあるペテロに「私があなたの側にいる。だから恐れることはない。あなたは、ただ私を見つめて歩けばよい」とそう語りかけておられる。
 ところが、人間というのはそう言われても、なかなかそうはいかない。見なければいいものを見てしまったり、見なければいいものが目に飛び込んでくる。そうするとたちまち、不安や恐れで心が掻き乱されてしまうのです。そういった意味では、このペテロという男は、実に人間らしい人間だと言えますし、このペテロという男言う男に、私たちは自分自身の姿を重ね合わせることができる。
 そんなペテロが再び恐れを感じて「主よ助けてください」と叫ぶとき、イエス・キリスト様はすぐに、みなさんすぐにですよ、手を伸ばしてペテロをつかみ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」といってペテロにと共に舟に乗り込む。すると嵐は止んだというのです。

 私は、このイエス・キリスト様の「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉をイエス・キリスト様はどんな調子で語られただろうかとと思い巡らしてみました。怒ったような口調であっただろうか。ペテロを情けない奴だというかのようなちょっと見下したような口調であったろうか。それとも、愛と慈しみにあふれた語り方でいわえたのであろうか。みなさん、これは、想像するしかない世界です。しかし私は、かなりの確信をもって、愛と慈しみにあふれた口調であったろうと思うのです。

その確信の根拠は、嵐が止んだということにある。そこでは、ペテロを含む弟子たちの恐れと不安の根底にあった原因が取り除かれているのです。みなさん、この出来事を目撃し経験した弟子たちの中に、ヨハネという男がいた。この男は、先ほど司式の兄弟にお読みいただいたヨハネによる第一の手紙を書いた男です。そのヨハネ第一の手紙の418節には「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである」と書かれている。この「完全な愛は恐れを取り除く」という言葉は、完全な愛が恐れを心の中から追い出すそんな状況を表している言葉です。

 私たちの心に中に、愛が注ぎ込まれて来ると、その注がれた愛が、私たちの心の中にある不安や恐れを締め出していくとヨハネは言うのです。そして、ヨハネ自身がそう言い切ることができるのは、彼が、そのような経験をしたからです。その彼の愛が注がれていくときに恐れや不安が消えていくという経験を、この小舟が嵐に巻き込まれ自分たちが死のう淵に立たされるという恐れの中にある時に、「恐れるな、私だ」といってイエス・キリスト様が嵐を沈めた出来事を通してヨハネも経験していたと思われるからです。

 みなさん、私たちの人生には、様々な出来事が起こってきます。嬉しいこともあれば悲しいこともありますし、私たちの心をかき乱し不安と恐れのどん底に陥れる出来事もあるでしょう。けれども、仮にそのような事態に陥ってしまったとしても、そこに愛があり、その愛が心に注ぎ込まれて、愛で心が一杯になったならば、恐れや不安は心から閉め出されていくのです。だからヨハネはあなたがたは互いに愛し合いなさいと勧めるのです。

 私たちが愛し合うところには不安や恐れがないからです。けれども、私たちの住む世界には、互いに愛し合うということでは済まされないに事態も起こって来る。愛が感じられないような冷たい風が吹きすさんでいることもあるのです。また、死の恐れという私たちの力ではどうしようもないものもある。

 そのような中でも、恐れるな、私はあなたの側にいるとイエス・キリスト様は言っておられるのです。

みなさん、聖書の語るメッセージの中心的なもの一つが、神が私たちと共にいてくださるから「恐れるな」というメッセージです。先ほどお読みいただきました旧約聖書イザヤ書419節か13節の言葉も、その「恐れるな」ということを告げるメッセージです。そこでは

恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあな たの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。

と言われている。

みなさん、神は、そして神の御子イエス・キリスト様は、私たちに「恐れるな」と言われるのです。それは、父なる神と子なる神イエス・キリストというお方が、私たちと共におられ、私たち人間の愛では包み込み切れないほどの試練や冷たい風が吹くすさぶような出来事や、死の恐れまでも閉め出すほどの愛で、私たちを愛して下さっているからです。実際、父なる神・子なる神イエス・キリスト様、そして聖霊なる神である三一体の神は、御子イエス・キリスト様が十字架の上で命を投げ出すほどに私たちを愛して下さっている。だから、この神の愛の中に身を置いているならば、その愛が、私たちの心にしみ込んできて、恐れを取り除いてくれます。

 そして、そのような愛の中に、この今前にあるお写真の方々は今も置かれている。そしてルターもまた、一度は雷に打たれ、死の恐れの中で神の裁きを見、罪を裁く神を恐ろしいと感じ恐れたのですが、しかし、聖書を深く学んでいく中で、神は、実は罪を裁く恐ろしい神ではなく、罪びとを赦し受け入れる愛の神であることを知っていったのです。そしてその愛で愛されていることを知ったときに、死の恐れは閉め出され、あのペテロのように、私たちに差し出された神の御子イエス・キリスト様の手に寄り縋れば、救われるのだということを知り、心に平安を得たのです。

みなさん、私たちも、その神の愛で愛されています。神の御子イエス・キリスト様は、自分の命を投げ出すほどに私たちを愛して下さっているのです。そして、私たちにその手を差し伸べてくださっている。ですから、この神の愛を信じ、死をも乗り越える力を与える神の恵みを信じ生きて行くならば、私たちに様々な不安や恐れが襲い来ることあっても、神の愛が私たちの心から恐れや不安を締め出してくれるのです。祈りましょう。



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