2019年1月13日日曜日

2019年01月13日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 キリストの信実のゆえの 」

2019年01月13日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・出エジプト記 第2章 23節 - 25節
・マルコによる福音書 第14章 22節 - 25節
・使徒行伝 第3章 11節 - 16節

説教題 「 キリストの信実のゆえの 」


 今日の礼拝説教の中心箇所は使徒行伝311節から16節です。この箇所は、同じ使徒行伝の3110節にあるペテロが足の効かない人を癒し、歩けるようにしたと言うことを受けて、ペテロがその出来事を見た人々に向かって語った説教の一部分です。

このペテロの説教は、神がモーセを用いて、エジプトに奴隷になっていたイスラエルの民をお救いになったと言う神とアブラハムの間に結ばれた契約や、出エジプトの出来事といったイスラエルの民の歴史が下敷きにあると考えられます。後程詳しくお話ししますが、13節の「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました」と言う表現や、22節の「モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え』」と言った表現は、このペテロの説教の背後に、イスラエルの民の歴史の中に表された神の救いの物語があることをうかがわせる表現であると言えます。

ペテロは、ペテロの説教を聞くイスラエルの民に、イスラエルの民の歴史の中に語り伝えられた神の救いの物語を思い起こさ出ながら、あなたがたが十字架に架けて死なせたイエス・キリスト様こそが、神の救いの歴史を完成するお方であると言う語っているのです。 
ですから、本当なら説教全体を取り上げるべきなのでしょうが、私は今日の説教に当たるにあたって、二つの理由から、11節から16節までからお話しすることにしました。その二つの理由というのは、一つは、個人的に、今年からできるだけ説教を短くしたいという私の思いです。私の説教は時間に大体40分から50分ぐらいです。ですから、他の人と比べても決して短くはない。そんなわけで、今年は少し短くしたいという思いもあり、説教で取り扱う聖書範囲を短くしました。

 しかし、それ以上に大きな理由、それが二つ目の理由ですが、この箇所には、キリスト教の信仰にとって、とりわけプロテスタントの教会にとって、極めて重要なことが語られているからです。じゃあ、その極めて重要なことはなにかというと、それは信仰と恩寵の関係です。ことが、12節の

   これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。

と言う言葉や、16節の

   あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。

と言う言葉の中にあらわれている。

 みなさん、ペテロが「なぜこのことに驚くのですか」というこの驚くことは、1節から10節にある、足の効かない男性にペテロが「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」といって、その男性の手を取り、立たせて歩くことができるようにしたと言う出来事です。この出来事を見た人は卒倒しそうになるぐらい驚いた。

 実際、口語訳聖書には驚き怪しんだと10節に書いてありますが、最も新しい日本聖書協会共同訳では「驚いて、卒倒しそうになった」と訳していますし、新改訳2017では「ものも言えないほど驚いた」とありますから、その驚きがどんなに大きなものかわかります。

 そのように、卒倒しそうなほど驚いている人々に向かって、ペテロは「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか」と問いかけます。

 この問いかけは大切です。なぜならば、私たちは私たちが出会う様々なことの原因を私たち人間の側に求めるからです。それは信仰の一緒です。私たちはしばしば断食や真剣な祈りが、祈りの答えを生み出すかのように思う。また、熱心な伝道が実りを生み出すかのように語ったりすることがある。それは因果応報のように、ことの結果は私たちの側の態度や信仰にあると言う態度と実は同じことなのです。

 みなさん、この時ペテロは、二つの「なぜ」と言う言葉をペテロの周囲にいて、この足の効かず歩けなかった人が「イエス・キリストの名によって」歩き始めお踊り出した癒しの奇跡を見ていた人々に投げかけています。

 一つは、「なぜ驚くのか」という問いであり、もう一つは、「なぜ、私たちをみているのか」かという問いです。しかし、「なぜ驚くのか」と言われてもこまります。卒倒しそうなほどのことを目の当たりにしたのですから、驚くのは当たり前です。「なぜ、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、わたしたちをみつめているのか」と言われたって、足の効かない男性の手を取り立ち上がらせ、歩き躍らせたのはペテロです。ペテロを凄い人だと思い注目するのは、当然のことです。いずれも、ごく自然なことであり、当たり前に思えることです。

 そのごく自然で当たり前のことを、あえて「なぜ」と問うたのは、それが当たり前のことではなく、みんなが考えているようなことではないからです。おそらく、この時に周りにいた人々はペテロの、ペテロが、この足の効かない男性の癒しが、神の恵みの業であったとしても、それを引き起こしたのは、ペテロの信仰であり、神の熱心な信仰のゆえにやみがめぐんでくださったのだと考えたのでしょう。ペテロは、この癒しの業が人間の側の信仰にあるのではなく、イエス・キリストの信仰にあるのだということを明らかにするために、あえて「なぜ」と言う問いかけを投げかけ、あなたがたが十字架に架けたイエス・キリスト様の信仰が、この足の効かない男性を癒したのだと言うのです。

 私たちがイエス・キリスト様を信じる信仰ではなく、イエス・キリスト様が神に対して持っておられた信仰が、神の恵みを引き起こすのだというのです。つまり、神が私たちを恵み、あわれんで下さる原因は、私たちの側・私たちの内にはなく、ただイエス・キリスト様の内に在るのだと言うのです。 
 それは、あたかも出エジプトという神の救いの業、神の恵みの業の出来事と同じようです。さきほど司式の兄弟にお読みいただいた出エジプト記223節から25節(旧約聖書76頁)は、神がイスラエルの民を彼らを奴隷として支配し治めていたエジプトから救い出し、彼らの故郷であるカナンの地へ連れ帰ろうと思われた動機が記されています。そこにはこうあります。

神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、 神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた。

ここでいわれていることは、神がイスラエルの民をエジプトから救い出されるのは、イスラエルの民が、自分の罪を神に言い表し、罪を悔い、熱心に救いを祈り求めたからではありません。神が、アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約のゆえに、神はイスラエルの民を顧み、知ろしめられたと聖書は言うのです。

アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約というのは、創世記174節の神とアブラハムに結ばれた契約が基となっています。その契約とはアブラハムが神の約束の言葉を信じ、神の言葉に従うことによって結ばれた契約で、神はアブラハムの子孫を与え、その子孫が多く増え、神はアブラハムと彼の子孫の神となるという契約です。そのアブラハムの契約が、イサク、ヤコブと受け継がれ、その子孫であるエジプトに奴隷としているイスラエルの民にも及んでいるのです。それは、神は約束に信実な方だからです。 
だから、アブラハムの子孫であり、アブラハムの契約を受け継ぐイスラエルの民を神は顧み城しめられるのです。つまり、アブラハムの神に対する信実、それを聖書では信仰と言うのですが、そのアブラハムの信仰が、彼の子孫のイスラエルの民を救うのです。それと同じように、イエス・キリスト様の信実が、この足の効かない男性を、彼の苦しみと苦悩から救い、私たちを救うのです。

みなさん、奇しくもペテロは、この使徒行伝311節からの説教で、イエス・キリスト様について「アブラハム、イサク、ヤコブの神、私たちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜ったのであるが」と言っています。それは、アブラハムの信仰による契約の基づく祝福が、その子イサクへ、そしてイサクの子ヤコブへと受け継がれイスラエルの民を造り上げて行ったようにイエス・キリスト様の信実によってもたらされた契約が、イエス・キリスト様につながるものに祝福をもたらすのです。 
その意味でみなさん、イエス・キリスト様の信仰、それは十字架の死に至るまで神に従順であられたイエス・キリスト様の信実が、新しい契約を私たちにもたらします。そうです。私たちは先ほど新約聖書のマルコによる福音書1422節から25節(新約聖書口語訳.76から77頁)の言葉に耳を傾けました。それは最後の晩餐の席での言葉ですが、そこにおいてイエス・キリスト様は、パンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えてこう言われたのです。

「取れ、これはわたしのからだである」。 23また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。 イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。

 この裂かれたパンと杯に注がれたぶどう酒がイエス・キリスト様の十字架の死を示していることは間違いありません。そして、その十字架の死は、イエス・キリスト様が死に至るまで神に従い抜いて生きた証であり、イエス・キリスト様の神に対する信実です。その真実が、新しい契約をもたらしたのです。その契約は、イエス・キリスト様の名を信じる者を新しい神の民として迎え入れるます。神の恵みの支配の中で私たちを生かすのです。
 そのイエス・キリスト様の信実に基づく契約がもたらす恵みと祝福は、まさにイエス・キリスト様の信実の故です。私たちの信仰の内に、私たちの熱心さの内にその祝福をもたらす原因があるのではない。ただイエス・キリスト様の信実が私たちを救うのです。
 そのことが、、足の効かない男性にペテロが「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」といって、その男性の手を取り、立たせて歩くことができるようにしたと言う人々が卒倒しそうになるほど驚いた出来事の背後にあるものです。だからこそ、ペテロは、16節で

あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その 名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。

と言うのです。

 みなさん、神の恵みと祝福は、私たちの熱心な信仰がもたらすのではありません。私たちの熱心な祈りや奉仕によって、神は私たちを顧み、憐れみ、恵みを与えてくださるのではない。神の恵みと憐みとは、ただイエス・キリスト様の信実がそれを私たちにもたらされるのです。 
もちろんだからと言って、私は熱心な信仰を否定しているのではないのです。私が否定しているもの、そして聖書が否定しているものは、自分自身の願いや求めのための熱心になる信仰は、神の恵みも祝福ももたらさないといっているのです。 
そうでしょ。あの足の効かない男性が神殿の「美しの門」のところで求めたいたのは施しです。おそらく熱心に施しを求めて乞うていたのでしょう。しかし、ペテロはその男性に「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言って、その男明日性が求めた金銭ではなく、しかし、その男性にとって本当に必要なものを与えたのです。 
しかも、それは男性の熱心さでもなく、ペテロの信仰の強さ、信仰の深さの故でもなく、イエス・キリストの信実がもたらす神の恵みであり、祝福であり、あわれみがもたらすものだったのです。

みなさん、信仰の熱心さや、信仰深さや信仰の強さというものは、自分自身のために向けられるものではありません。むしろそれは、私たちに必要なものを与えてくださるイエス・キリスト様の信実を信じることに熱心になり、神のお心に生きることに向けられるべきものです。 

そうです、みなさん私たちが神と共に生き、神に喜ばれるものとしてい生きることに熱心である信仰の熱心さは決して否定さえるものではありません。それは本当に貴いものです。ですから、私たちに本当に必要な恵みや祝福や憐みを与えるイエス・キリスト様の信実を信じ、神と共に生き、イエス・キリスト様と共に生きる者になろうではありませんか。お祈りしましょう。

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