2019年1月13日日曜日

2019年01月06日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 思いやる心 」

2019年01月06日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・申命記 第15章 7節 - 11節
・マタイによる福音書 第11章 2節 -  6節
・使徒行伝 第3章 1節 - 10節

説教題 「 思いやる心 」




 アドベントからクリスマスまでの4週間の時期を終え、年末年始を迎え、今日は2019年の最初の礼拝です。今日から、レントの時に入るまでの約3か月間は、今まで通り、使徒行伝からの連続説教に戻ります。

 今日の説教の中心となる箇所は、使徒行伝31節から9節までですが、一か月以上間が空いてしましました。そこで、もう一度ここまでの流れをサクッと振り返っておきますと、使徒行伝は、十字架に架かって死なれたイエス・キリスト様が三日目によみがえった後、40日にわたって、たびたび弟子たちに現れて神の国について語られたと言うことから始まります。

 40日間にわたって神の王国について語られたと言うことは、イエス・キリスト様が本当に弟子たちに伝えたかった内容は神の王国についてであり、イエス・キリスト様がこの世にもたらそうとしたものは、まさにイエス・キリスト様を油注がれた王とする神の王国であったと言うことができるでしょう。そのイエス・キリスト様のもたらそうとした神の王国は、神の恵みが支配するところであり、イエス・キリスト様が天に昇られた後に、イエス・キリスト様の体なる教会として、世界中に広がっていくものです。

 このイエス・キリスト様が天に昇られると言うことは、その行為自体がイエス・キリスト様が神であり穂とであるお方であると言うことを象徴的に示すものであると同時に、「この世」にもはや肉体をもって存在していないと言うことを私たちに示すものでありました。そのイエス・キリスト様の昇天と言う出来事に後にキリストの体なる教会が世界中に建て上げられていくのですが、そのためには、イエス・キリスト様のことが伝えられ、証される必要がある。その意味では、使徒行伝全体は、キリストお体なる教会が建て上げられていく大きな物語であると言えます。

その働きのために弟子たちは召し出され、その働きに遣わされていくのですが、主なる神も、また主イエスキリスト様もただ「行け」といって号令をかけ、弟子たちを駆り立て、押し出していくのではありません。ちゃんと助け主であり真理の御霊である聖霊なる神を遣わして下さり、何を語り、以下に教会を建て上げていくのかを導き支えてくださるのです。

その聖霊なる神が、天から下り神を信じる民に与えられたと言う出来事が、ペンテコステと言う出来事でした。それが、イエス・キリスト様が昇天なさった後に起こった。そして、その聖霊なる神様を受け取った弟子たちは、大胆にイエス・キリスト様のことを語り始めたと言うのが、使徒行伝1.2章のサクッとした流れでした。まさに、このペンテコステの出来事から、この世界に神の王国のこの世の表れである教会が建て上げられ始めたのです。

その中で、今日の聖書個所の使徒行伝31節から10節までの出来事が起こるのです。それはまさに、これからキリストのからだなる教会が世界に広がっていこうとする矢先の出来事ですが、事の次第は、概ね次のような出来事です。

あるとき、ペテロとヨハネが祈ろうとして神殿に向かっていました。聖書はそれは午後の3時の祈りのためであったと告げています。みなさん、敬虔なユダヤ人たちは、一日に3度特別な祈りの時を持っていました。最初は午前9時ごろ、次が昼の12時、そして最後が午後3時です。ですから、ペテロとヨハネはこのユダヤ人のしきたりに従って祈るために神殿に向かっていたのです。

こうして見ますと、教会が建て上げられ始めた当初、イエス・キリスト様の弟子たちは、当時のユダヤ教と決別していたわけではなかったことが分かります。むしろ、キリスト教徒ユダヤ教が分かれるきっかけとなったのは、当時のユダヤ教のラビや律法学者と言った人々の方が、イエス・キリスト様の弟子たちを阻害し迫害していく中で起こったと言えます。そのような中で、生まれながら足のきかない男性をペテロが癒やすという出来事が起こるのです。

 この生れながらに足のきかない男性は、美しの門と言うところに置かれて毎日施しを求めていたようです。「美しの門」と言うのは、神殿の中で、ユダヤ人だけが入ることの出来る場所に入るためのある三つの門の中で正面の門に当たる東側の門です。そこにこの足の聞かない男性は置かれていたというのです。

 置かれる(τιθημι)と言う言葉は、いかにも物を置くがごとき響きがあり衝撃的ですが、いろいろと調べてみますと、この置くと言う意味を持つギリシャ語のτιθημι言葉を、ユダヤ人たちにとって「人の注意をひく」とか「心にとどめる」と言うニュアンスがあるようですので、それこそ、祈りために来ていた人々の注意を惹き、そして施しを受けるために、「美しの門」のところに連れてきてもらっていたようです。

 その男性が、ペテロよヨハネに施しを乞うたのです。もちろん、この男性が期待していたのは、いくらかの金銭が施されることだったのでしょう。そのような期待をもって、この足の聞かない男性は、ペテロとヨハネをじっと見ていたと言うのです。

 しかし、その時ペテロは、施しを乞う男性に向かって「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう、ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」といって、この足のきかない男性の手を取り、立ちあがらせると、それまで歩けなかった足が癒やされ歩けるようになったと言うのです。そして、大喜びで神を賛美し、ペテロとヨハネと共に神殿に入っていたというのです。当然、その出来事を見た人たちに、大きな驚きをもたらします。そしてこの出来事を見た人は驚き怪しんだと言うのです、これが、この使徒行伝31節から10節に記された出来事の大まかな流れです。

 この物語は、確かにペテロによる癒しの物語です。しかし、使徒行伝が、イエス・キリスト様が「この世」にもたらした神の王国であるキリストの体なる教会が建て上げられていくありさまが記されていると言うことを考えますと、このぺテロの癒しの物語は、単に病が癒やされたと言う問題に留まりません。

 むしろ、神の王国がこの世にもたらされ、ペテロたちによって、それが広がっていくのだと言うことを示す物語であると言って良い。というのも、ペテロは、この足のきかない男性を癒す時、「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言ってウやしているからです。

 みなさん、私はここ最近、繰り返し言っていますので、このキリストと言う言葉が、当時のユダヤ人にどんな響きを持っていたかについては、耳にたこができているかもしれませんが、今日も繰り返し言いますが、キリストと言う言葉は「油注がれた王」と言う意味を指しています。つまり「あなたが神の王国の民であるならば、その神の王国の王であられるイエス様が、あなたに立って歩きなさいと言っておられるのだから、さあ立って歩いて御ごらんなさい」とペテロは言っているのです。

 つまり、この癒しの出来事は、神の王国に生きる神の民にもたらされる恵みが示されているのです。実際、先ほど司式の兄弟にお読みいただいたマタイによる福音書112節から6節において、イエス・キリスト様自身が、バプテスマのヨハネから「あなたは来るべき方(キリスト)ですか、」とたずねられた時、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」とそうお答えになり、これらのことが実際に起こっている。それこそが、私がキリスト、来るべき神の王国が到来したことの徴であることの証であるというとお示しになっておられるのです。

 みなさん、ここであげられている「目が見えない人」や「足の不自由な人」、あるいは「重い皮膚病を患っている人」というのは、私たち人間が負う苦悩です。それこそ、自分ではどうしようもない肉体に負った病や障害です。死というものも、私たちには抗えない悲しい現実です。それらは、私たちの存在の根底を揺るがすような苦悩です。そう言った苦悩にある人々をイエス・キリスト様はお癒しになって行かれた。まさにそれは、神の王国の到来は、私たちの存在の根底を揺るがす苦悩に救いをもたらし、その苦しみから私たちを解放するのです。

 人間が人間として阻害され、人間が人間として扱われないような苦しみをもたらす苦悩から、イエス・キリスト様は私たちを救い、この悲しみや苦悩を癒してくださるお方なのです。それは、父なる神のお心です。

 私たちは先ほど申命記151節から6節は7年ごとに訪れる安息年で行われる解放の業が記されています。そこに記されていることは、この7年ごとに訪れる安息年には、隣人に貸した貸主はその借金をゆるさなければならないと言うことです。逆に言えば、金を借りた借り手は、その借金を介さなくていいと言うことです。つまり借金から解放されるのです。

 それは、お金の借り貸しの問題だけではない、奴隷として売られてきた人も、6年間働いたら、7年目には自由にして解放してやりなさい、また手ぶらで去らせてはならない、家畜の群れから、また穀物の内場から、そしてぶどう酒の酒ぶねから、相応のものを分け与えなければならないということが、同じ1512節以降に書いてあります。

 それは、神の民は、神によって「この世」から解放され、罪の支配から解放され、神の恵みの支配の中に置かれているからです。だからその恵みを分け合いなさいという。お金や支配と言ったものから人を縛り付けている悲しみや苦悩ものから解放し、人間が人間らしく生きるようにと神は私たちのことを思いやって下さっている。その神の思いやりが、この申命記に記された安息年の規定の根底に流れ、人々を解放し本来のあるべき姿へと導いていくているのです。そして、そのような神の思いやりに支えられた世界には、もはや貧しい者はいないとさえ神は言われる。

 みなさん、イエ・キリスト様が「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と言われたとき、まさにそのような神の思いやりに満ちた世界が、イエス・キリスト様によってもたらされているのだというのです。
 そのイエス・キリスト様の言葉を思い出させるかのように、ペテロは「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう、ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」といって、施しを求めてきた足の聞かない男性を立たせ歩かせるのです。

 彼は、金銭を求めてきた。生活しなければならないからです。しかし、この人の抱えていた問題本質、苦悩の本質は足が利かないことにありました。今、ここでペテロとヨハネからいくばくかの金銭をほどこされてこの男性の問題と苦悩は解放されません。それは、何日かの生活をしのがせるかもしれません。しかし、この男は、その何日かがすぎれば、また再びあの「美しの門」の前で、自分自身の姿をさらして人目を惹き、施しを受けなければならないのです。だから、彼は毎日、「美しの門」の前に置かれていたのです。

 みなさん、この足の利かない男性の問題の本質は、まるで見世物のようにして人目を聴くことで施しを乞うと言う、人間の尊厳性を欠くような非人間的な扱いの中で生きていることであり、本当の問題の解決は、その人間としての尊厳性を回復するところにある。イエス・キリスト様が、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と言われたその言葉は、まさに人が人としての尊厳性が回復され、一人の人として大切にされる神の王国がイエス・キリスト様によってもたらされているのだということであり、単に癒しの業が起こっていると言うことを述べているのではないのです。

 確かに、イエス・キリスト様は力あるお方です。だから癒しの業も起こって来るし、奇跡だって起こる。そしてその力ある業に人々は驚きます。しかし、大切なのは、嫌仕業それ自体にあるのではない。イエス・キリスト様が「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と言う言葉の真意は、まさに神の王国が始まったのだと言うことを宣言する言葉であり、ペテロがキリストの体なる教会という神の王国の「この世」での表れである教会が世界中に建て上げられていく物語を語る使徒行伝で「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう、ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」といって、施しを求めてきた足の聞かない男性を立たせ歩かせた出来事もまた、神の王国の表れを伝える出来事として聖書に記されているのです。

 みなさん。私たちの教会は、今年の指針となる御言葉としてヨハネ第一の手紙318節の「子たちよ。わたしたちは言葉や口先で愛するのではなく、行いと真実をもって愛しあおうではないか」と言う言葉を掲げました。

 それは、私たちが具体的に行いと真実をもって愛し合う具体的な教会の歩みをしていくことで、ペテロが「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう、ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」といって、施しを求めてきた足の聞かない男性を立たせ歩かせたように、教会の中で、一人一人が尊厳ある大切な一人として扱われることで、私たちを愛し、私たちを人間として人間らしく生かしてくださる神の愛と思いやりを、「この世」と言う世界に向かって示していくことなのです。

 そのことを覚えながら、みなさんと共に、この一年間を共に歩んでいきたいと思います。お祈りしましょう。

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