2019年4月6日土曜日

2019年03月31日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 最後に神は勝つ 」

2019年03月31日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・エステル記  第 6 章 1 節 - 11 節
・ヨハネによる福音書 第 1 章 1 節 - 5 節
・使徒行伝 第 5 章 29 節 - 42 節

説教題 「 最後に神は勝つ 」



193月第5主日受難節第4週礼拝説教「最後に神は勝つ」       2019.3.31
旧約書:エステル記6111節 
福音書:ヨハネによる福音書115
使徒書:使徒行伝52942

 今日の礼拝説教の中心箇所は使徒行伝533節から42節です。この箇所は、同じく使徒行伝521節から32節までに記されている。使徒と呼ばれるイエス・キリスト様の弟子たちの中心となっていた人々が、大祭司やサドカイ人、あるいはイスラエルの長老と言われるイスラエルの宗教的・政治的指導者たちの前で語った弁明を受けて、その指導者たちの中に何が起こったかが記されている箇所です。

イスラエルの民の指導者たちは、イエス・キリスト様の弟子たちが、イエス・キリスト様の教えを語り、またイエス・キリスト様の名によって様々な不思議な業を行っていることを快く思っていませんでした。聖書は、その感情を「嫉妬の念に満たされていた」と述べています。使徒行伝517節です。 
それは、イスラエルの民の多くの人たちが、イエス・キリスト様の弟子たちのところに集まり、その教えに耳を傾け、癒しの業に与っていたからです。つまり、人々の心がイエス・キリスト様の弟子たちを通してイエス・キリスト様に向かっていた。だから彼らは嫉妬の念に駆られたというのです。 
そのような中で、とりわけ、大祭司やサドカイ人、そして長老たちと言った人たちが、気にかけたのは、弟子たちが、まさにそのイスラエルの指導者層の人間が、イスラエルの民の救い主であったイエス・キリスト様を十字架に付けて殺したのだと言っていることです。それが気に食わなかったようです。

 使徒行伝52728節では、その彼らの気持ちが次のように記されています。

あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ。

「あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいる」とイスラエルの民の指導者たちはそう考えた。それは、彼ら自身がイエス・キリスト様を陥れ、人々を扇動して、十字架に付けて死なせるように仕向けたということを自覚しているからです。そして、事実そうであったのです。だから、「あの名を使って教えてはならない」と、きびしく命るのです。 
それに対するイエス・キリスト様の弟子たちの弁明が、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた中の、使徒行伝529節から32節なのですが、彼らは、イスラエルの民の指導者たちの恫喝のような詰問に対して「人間に従うよりは、神に従うべきである」と言って、イエス・キリスト様の教えを語り、イエス・キリスト様のことを伝えることを止めないと、はっきりと意思表示をするのです。
 このような弟子たちの態度は、イスラエルの民の指導者たちの怒りに油を注ぎます。ですから、大祭司やサドカイ派の人々、また長老たちといったイスラエルの民の指導者たちは、イエス・キリスト様の弟子である使徒たちを殺そうと思ったと33節に書いてある。

 ところが、そのような殺伐とした雰囲気の中で、ガマリエルという人が立ち上がり、弟子たちをその場から外に出させて、語り始めます。このガマリエルという人は律法学者のひとりでした。律法学者というのはと呼ばれる旧約聖書に書かれている内容について詳しく学び、研究し、イスラエルの民に教え聞かせる働きをしていた言うなれば、旧約聖書の専門家です。そのガマリエルが、怒りに燃え上がっているイスラエルの民の指導者たちに、少し落ち着いて冷静に考えようというのです
 その内容が535節から40節に書かれていますが、要は「自分たちが、あのイエス・キリスト様の弟子たちを殺さなくても、もし彼らが言っていることが誤っているのならば、神が彼らを滅ぼしてしまうのだから、彼らのことはもう放っておこう」というのです。ガマリエルは、そのような彼の主張を、そのころ起こったチゥダとユダいう人の事例を上げながら述べる。

 このチゥダという人は、ヨセフスという1世紀の歴史家が記した『古代史』と言う書によりますと、どうやら自分のことをモーセかヨシュアと言った偉大な預言者に匹敵する存在であるかのように言っていたようです。そのチゥダの言葉を信じて多くの人たちが集まった。また、ユダという人物についてもヨセフスは書き記していますが、このユダは、イスラエルの民を奴隷化するローマ帝国に反乱を起こそうと人々を扇動していたようです。 
 この二人の人物は、神の名を掲げながら、その行動を起こした。しかし、そのチゥダもユダの試みも、結局ローマ帝国によってつぶされ、チゥダもユダの処刑されてしまった。ガマリエルは、それはチゥウがしたことも、ユダがしたことも神の名を使って行ったことであるが、実際は神から出てきたことではない。それは人間から出てきたことなのである。だから自滅した。同様に、使徒と呼ばれるナザレのイエスの弟子たちもまた「人間に従うよりは、神に従うべきである」と言って、イエス・キリスト様の教えを語り、イエス・キリスト様のことを伝えているが、それが神から出たものではなく人間からでたものであるならば必ず自滅する。

 逆に、もし使徒たちがいま行っていることが神から出たものだとしたら、それを阻止しようとする私たちが神を敵に回すことになる。そんなことをしたら滅ぼされるのは私たちだ。だから、ここは使徒たちがしていることを静観していようとガマリエルは言うのです。
それは、神が神であるならば、神がなさろうとすることは必ず実現するからです。なんだかんだといろいろあっても、最後の最後には神の御心がなる。結局最後に勝つのは神なのだ。それは極めて冷静な意見であり、ものの見方です。それは、極めて信仰的なものの見方であり、考え方であって間違っていない。そういって良いだろうと思います。

けれどもみなさん、私は、このガマリエルの言葉を読んだ時なんとも不思議な感じがした。そうでしょ、みなさん。だって、このガマリエルは、あのイスラエルの指導者たちがイエス・キリスト様を捕らえ殺そうとしてサンヘドリンの議会に引き出し裁判にかけ、更には民衆を扇動して、実際の十字架に磔にして殺させたとき、そのイスラエルの指導者たちのただ中にいたのです。だったらなぜ、その時に、同じことを言わなかったのか。私は不思議に思った。
 おそらくガマリエルは、イエス・キリスト様の裁判の時には、他の指導者たちと同じようにイエス・キリスト様を殺すことに同意していたのでしょう。けれども、今、ここで、そのイエス・キリスト様の弟子である使徒たちを裁き殺そうと議会がしている中で、ガマリエルはかつての時とは同じではないのです。冷静に、落ち着いて信仰的に物事を判断しようとしている。いったい何が彼を変えたのか。

 みなさん。あのイエス・キリスト様がイスラエルの民の指導者たちによって裁判にかけられた時から、この使徒たちが裁判にかけられる間に起こった出来事は、イエス・キリスト様の十字架の死です。それはイスラエルの指導者たちにとっては、一見、権力の勝利と思われるような出来事です。しかし、イエス・キリスト様の弟子たちは、その十字架で死んでイエス・キリスト様が復活し、天に昇ったと言って人々に語り聞かせ、イエス・キリスト様の名によって人々を癒し、不思議な業を行い、人々の心を再びイエス・キリスト様に向けている。
ガマリエルは、そのことを見ているのです。「父よ彼らをおゆるし下さい、彼らは何をしているのかわからないでいるのです」といって死んでいかれたイエス・キリスト様のお姿を見た。そして、そのように死んでいったイエス・キリスト様の語った教えは、弟子たちに受け継がれ、決して滅んでいない。またイエス・キリスト様の業も滅んではいない。確かにイエス・キリスト様は十字架に架かって死んだのですが、決して滅んではいないのです。その事実を。彼はイエス・キリスト様の証人となった弟子たちの姿を通して見ている。そしておそらく彼は考えたのでしょう。いったいこれは何事かと。そして、自分たちがしてきたことを振り返り、顧み、反省していたのではないか。私はそう思うのです。

みなさん、私は先日、アジア神学大学院の牧開学博士課程の学びを終え、論文を提出し、受け入れられました。この論文を書き始めた当初は、徳善義和と言うルター研究の日本における第一人者の方から指導を受けていたのですが、その徳善先生が、神学と言うことについて次のように述べておられました。

神学とは、神の自己啓示としての神の言葉に聞き従って、『我信ず』という信仰の立場で、キリスト教信仰を学問的に研究する、教会の学である。神学は、教会の宣教のために存在し、これに奉仕するまた神学は、教会の宣教を、聖書と信仰告白とに立って、批判的に検証する

 ちょっと難しい言い回しですが、みなさん、この神学を定義する徳善先生の言葉が私の心の琴線に触れた。とりわけ「『我信ず』という信仰の立場でキリスト教信仰を学問的に研究し、聖書と信仰告白に立って批判的に検証する」と言う言葉に引きつけられたのです。「避難的に検証する」とは、自分自身の持つ信仰を信仰者として問いなおすという姿勢です。つまり、神学とは、絶えず自分自身の信仰を振り返り、顧みて反省することだというのです。

 みなさん、神学は教会の宣教をただしく導くためにあると言われます。それは、神を信じる民が、キリストを証しするものとして正しく生きるためにあるということです。

 みなさん、私たちは過ちも多く、失敗も多くある。間違えることなんてしょっちゅうです。だからいつも、自分の在り方や行動、考え方を振り返り、それを反省する。それが信仰が健全に守られるために必要なことなのです。それはそうですよね。みなさん、反省の内信仰なんて怖いと思いませんか。
 間違ってもいい、失敗してもいい、そこでいったん立ち止まって、自分自身の信仰を顧み、問い直していく。それが反省するということです。だとすれば、反省しない信仰なんていやですし、反省の内信仰はとても怖い。

 ガマリエルは、イエス・キリスト様を裁判にかけ、十字架で死なせた日から、この日まで、イエス・キリスト様の証人として、イエス・キリスト様を証しし伝えているの弟子たちの姿を見ながら、自分のしたこと、考えてきたことを顧み、問うていたのだろうと思うのです。しかも、彼は旧約聖書に精通した律法学者です。ですから旧約聖書を思い巡らしながら、神からでた業と人間から出た業と言うことについて考えていたのでないかと思う のです。だとしたら、彼はいったい旧約聖書のどの個所を思い起こしていたのだろうか。
 そんなことを考えていますと、私はふと、先ほど司式者に読んだいただいたエステル記を思い起こしていたのではないかとそんな思いがしました。

 みなさん。このエステル記と言うのは、ユダヤ民族が滅ぼしつくされてしまうかもしれないという民族絶滅の危機の出来事が記されている物語です。それは紀元前盛期半ばから後半にかけて今の中近東を支配していたペルシャ帝国の王であったクセルクセス王の時代におこりました。
そこには、クセルクセス王の一番の側近であるハマンという人物が出てきます。このハマンが、モルデカイと言うユダヤ人が自分に敬意を払わなかったというので怒り、その怒りが高じてモルデカイはもちろん、ユダヤ民族すべてまでをも絶滅しよう計画が企てられるのです。まさにユダヤ民族抹殺計画が進められていく。

実は、私はこのエステル記を読むとき、いつも心が痛むのです。エステル記には、極悪人はハマンが出てくる。そう思うと、似たような名前である「濱」という名字をもつものとして、自分が攻められるような気がして心が重くなると同時に、自分は本当に罪びとなのだと、自分自身の信仰を顧み反省するのにもこのエルテル期は大変役立っているのですが、ともかく、この極悪人は万によって、ユダヤ民族の命は風前の灯となるのです。そのとき当時クセルクセス王の王妃のひとりとなっていたのが、あのユダヤ人抹殺計画の原因となったユダヤ人モルデカイの娘エステルです。
そのエステルによって、この民族絶滅の危機を逃れることが出来事のですが、先ほど司式の兄弟にお読みいただいたエステル記61節から11節は、まさにその危機的状況を脱することができた場面が書かれている箇所です。

 みなさん、エステル記と言う箇所は聖書の中にあって、唯一神と言う名が出てこない書です。しかし、神と言う名前は出てきませんが、この物語全体を通して、神は隠れた神としてイスラエルの民を守り、支えておられるのです。そして、ハマンと言う一人の人間の計画として出たユダヤ人抹殺計画をつぶし、その計画を立てた張本人のハマンを滅ぼされたという神の勝利の物語がこのエステル記と言う物語なのです。
 そういったわけで、あの使徒行伝5章に登場するガマリエルはこのエルテル期の物語を読み、思い巡らしながら、自らの信仰の在り方を問い直し反省したかのではないかと思ったわけなのですが、それがあっているかどうかは別にして、ガマリエル、それまでもの自らの在り方を顧み、問い直すという反戦を通して、人間から出た業は滅んでいき、最後には神の御心がなされるのだから、ここは、イエス・キリスト様の弟子たちを殺してしまうという過激な行動に出るのではなく、神がどうなさるのかを見守っていこうという冷静な、そして信仰的な判断ができたのです。

 その結果どうなったのか。聖書は、使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきて、毎日、宮や家で、イエスがキリストであることを、引きつづき教えたり、宣べ伝えたりしたと伝えています。イエス・キリスト様の教えと業は決して滅びなかったのです。それだけではありません。今日では何十億という人がクリスチャンとして神の言葉に耳を傾け、イエス・キリスト様を信じ生きているのです。
まさに、先ほどの新約聖書ヨハネによる福音書15節に「闇は光に打ち勝たなかった」とあるように、イエス・キリスト様は、「この世」という人の世に打ち勝たれたのです。だからこそ、イエス・キリスト様の教えは、人々の心を捉え、人々を神の国へ招いてきたのです。
ガマリエルは、最後に神の御心が成るということを自らの信仰を顧み、聖書に問うことで知りました。自分の信仰を反省することで最後に神は勝つという信仰の姿勢に至ったのです。それによって彼は、彼の言葉通り神に敵対するものとならずに済んだのです。

みなさん、信仰を顧み、反省する。それは、私たちが神の近づくための大切な営みです。私たちは失敗するし、過ちも貸します。間違うことも多々あるのです。しかし、私たちが、絶えず聖書の言葉に立ちながら自分の信仰の在り方、ものの見方、考え方を検証していくならば、私たちは神へと近づいて行くのです。神の子として神の子らしくなっていく。ですから、反省ある信仰生きて行きたいと思うのです。お祈りしましょう。



2019年03月24日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 神が共にいてくださるのだから 」

2019年03月24日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・申命記 第31章 23節
・マタイによる福音書 第28章 16節 - 20節
・使徒行伝 第5章 17節 - 32節

説教題 「 神が共にいてくださるのだから 」





19年 3月第4主日(受難節第3主日)
礼拝説教「神が共にいてくださるのだから」
2019.3.24

旧約書:申命記311724
福音書:マタイによる福音書281620
使徒書:使徒行伝51732

 受難節第3主日の礼拝を迎えました。今日の礼拝説教の中心となる箇所は使徒行伝517節から32節です。この箇所は、ペテロをはじめとする使徒と呼ばれるイエス・キリスト様の弟子たちが、イエス・キリスト様が十字架に磔られ、死なれ、葬られた後、三日目に死人の内から蘇られたあと、弟子たちに現れ、神の国のことを教えられた後、天に昇られ、聖霊が天から下ってきて弟子たちに下った後、弟子たちが互いに愛し合い尊ぶことをしながら教会を建て上げ、そしてイエス・キリスト様のことを述べ伝えていく中で起こった迫害の出来事について語られています。

 みなさん、お気づきになられた方もおられるかと思いますが、今申し上げましたこと、すなわち「イエス・キリスト様が十字架に磔られ、死なれ、葬られた後、三日目に死人の内から蘇られたあと、弟子たちに現れ、神の国のことを教えられた後、天に昇られ、聖霊が天から下ってきて弟子たちに下った後、弟子たちが教会を建て上げていったこと」というのは、すべて先ほどみなさんと一緒にご唱和しました使徒信条に書かれている内容です。

 この使徒信条は、私たちの信仰告白です。私たちクリスチャンが、神と人の前に何を信じ、何を述べ伝え、そしてどのような信仰に基づいて生きているかを告白する、それが使徒信条であると言って良いでしょう。つまり、彼らが神を信じ、イエス・キリスト様に対する信仰を告白していくとき、そこに迫害が起こって来る。
 その現れが、この使徒行伝517節以降にしるされてます。それはまず、使徒行伝517節の「大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが、みな嫉妬の念に満たされて立ちあがり、 使徒たちに手をかけて捕え、公共の留置場に入れた」と言う出来事から始まります。

 大祭司やサドカイ派と言われる人たちは、いわゆる祭司階級であり、イスラエルの民の中にあっては政治的にも宗教的に指導的立場にある人たちで、言わば権力者です。その権力者たちから迫害を受け、公共の留置場に入れられ身柄が拘束されたのです。
 しかし、神は、使徒たちが留置場に拘束されることを善しとはなさいませんでした。それは、神の言葉が語られ、イエス・キリスト様のことが述べ伝えられなければならないからです。人々にイエス・キリスト様のことが述べ伝えられ、人々が教会に加えられていくことを神は願っておられるのです。だから、夜になると、み使いをつかわしひそやかに弟子たちを牢から解放する。

 みなさん、このイエス・キリスト様の弟子たちを牢から解き放つ解放劇はひそやかに行われた者ですから、彼らをとらえ留置場に入れた大祭司とその仲間の者であるサドカイ派の人々のあずかり知らないところで起こっています。それだけではない、留置場の戸口の立っていた門番さえも知らなかったと聖書は記しています。ですから、本当に誰も気づかれないように、ひそやかに弟子たちは解放されたのです。
 しかし、そのようにひそやかに解放されても、彼らはイエス・キリスト様を述べ伝えることを止めて、身を隠し潜伏するようなことはしませんでした。それは、彼らが自分が何をしなければならないかがわかっていたからです。彼らは自分の使命が何であるかをちゃんと知っていた。それは、イエス・キリスト様の言葉を証しし、神の言葉を述べ伝えることでした。

みなさん、神の言葉は繋ぎ止められるべきものではありません。それは伝えられるべきものです。そして、イエス・キリスト様の弟子たち、とりわけ使徒と呼ばれる働きに召し出された者にとって神の言葉を伝えるということが第一の使命だったのです。 
そもそも、使徒と言う言葉、ギリシャ語ではアポストロス(απόστολς)と言う言葉は、派遣されたもの、使者という意味を持つ言葉です。つまり、イエス・キリスト様を証しし、神の言葉を述べ伝える使命を負ってこの世に派遣されていくのが使徒と言う職務なのです。だから、かれらは神の御業によって解放されたあとも、エルサレムにあった神殿に出向いて行って、彼らに与えられた使命を全うする。 
もちろん、そのような行為には危険を伴います。なにせ、彼らが公共の留置場に入れられたのは、イスラエルの民の指導者たちが、彼らが語りなすことの全てが癇に障り、嫌いだったからですから、当然、彼らが再び語り出したなら、同じように彼らをとらえ留置場に入れるであろうことは、十分に予測できるからです。

実際、彼らは再び捉えられて議会の場に引き出されています。この議会と言うのは、イエス・キリスト様を断罪した場です。その議会の場で大祭司は弟子たちに次のような言葉を投げかけています。528節です。そこにはこうあります。

あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ。

 「あの名を使って教えてはならないときびしく命じておいたではないか」というのは、
同じ使徒行伝の4章の出来事です。そこにおいても、祭司や、宮守がしら、そしてサドカイ人といった今回と同じ顔触れの面々が、神殿でイエス・キリスト様のことを伝えるペテロや他の弟子たちにいらだち、弟子たちのリーダー的存在であったペテロとヨハネをとらえ牢獄に入れたという出来事が記されています。そして、その際に二人に向かって「イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬ」と言って脅しているのです。
 にもかかわらず、ペテロもヨハネも、そして他の弟子たちも誰一人としてイエス・キリスト様の名によってかたることを止めず、再び牢に入れられることになっても、なお語り続けるのです。それだけではありません。再び議会に引き出されて、「あの名を使って教えてはならないときびしく命じておいたではないか」と詰め寄られても、一歩も引くことなく、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」と言い「わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」といって、イエス・キリスト様の証人として語り続けるというのです。

 みなさん、この「わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」と言う言葉は重要です。それは、彼らがイエス・キリスト様のご生涯、とりわけイエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事の目撃者であるということを述べているからです。
 そして、その目撃した出来事の中には、イエス・キリスト様が、まさに自分たちが立っているサンヘドリンの議会の場で、自分たちの目の前にいる大祭司やサドカイ派の人たちによって陥れられ、それがきっかけで十字架で殺されることになった出来事も含まれているのです。ペテロなどは、まさにその出来事の目撃者であった。
 つまり、イエス・キリスト様と同じことが弟子たち起こってもおかしくないような状況がそこにある。そういった意味では、この使徒行伝526節から32節までに記されているイエス・キリスト様の弟子たちが置かれている状況は、かつてイエス・キリスト様が経験された状況と重なり合い、そのことを思い起こさせるような状況なのです。まさに命の危険を感じさせる場なのです。

 けれどもみなさん、彼らはそのような状況にあっても、一歩も引くことなく、イエス・キリスト様の証人として、自分たちが目撃したことをつぶさに語るというのです。それは、彼らだけではなく、彼らと共に聖霊なる神が共にいて、彼らと一緒にイエス・キリスト様の証言をしてくれるからです。 
 聖霊なる神は、父から派遣された神の霊です。神ご自身である。その聖霊なる神が共にいてくださるということは、まさに神ご自身が彼らと共におられるということでもある。だから彼らは権力者の力も恐れないのです。神が共にいてくださるから、困難や試練があって怖くないのです。
 いや、怖くないといったら語弊があるかもしれませんね。怖さは感じたかもしれない。むしろ感じてひて欲しいとさえ思う。なぜなら、私自身はその場に立たされたなら、きっと怖いと感じるだろうなと思からです。怖いと思っても、恐れずにいられる。恐れずに怖いともうことに向き合い、神が私に与えてくださった使命を全うする生を生きたいと思うからです。そしてそれは、神が共にいてくださるならば、わたしにも起こりうることなのです。

 みなさん。聖書の中には、神を信じる者に対して「恐れるな」あるいは「おそれてはならない」と語りかける神の言葉が何度も出てきます。今回は、聖書のもともとの言葉であるへブル語とギリシャ語までは調べられませんでしたが、日本語に訳された聖書、例えば口語訳聖書で神が神を信じる者たちに向かって「恐れるな」あるいは「恐れてはならない」と言われている箇所をざっと数えてみますと68箇所ほどありました。

 今日の礼拝の最初で招きの言葉として語られたイザヤ書4110節の「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」という御言葉もその一つです。
 また、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた旧約聖書申命記3123節では、主なる神様が、イスラエルの民をエジプおトから救出したモーセにかわって新しいリーダーとなって、イスラエルの民を神が示す地であるカナンに導き入れ国を建設しようとするヨシュアに向かって「あなたはイスラエルの人々をわたしが彼らに誓った地に導き入れなければならない。それゆえ強くかつ勇ましくあれ。わたしはあなたと共にいるであろう」と言っています。

 「強くかつ勇ましくあれ」と神が言われる言葉の背後には「恐れるな」という思いがある。そして神が、そのように「おそれるな、強く勇ましくあれ」とあえて言われるのは、そこに恐れがあるからです。

 モーセと言う偉大な指導者の後継者に指名されたヨシュアにとっては、自分はちゃんとやれるだろうかと言う恐れもあったでしょう。また、これから新しい地に入って行き、そこでイスラエルの民のために国を興すとしても、そこには先住民がおり、その先住民と戦って土地を勝ち取らなければなりません。しかも、その敵となる先住民は、非常に強そうで勝てそうもないような相手なのです。その敵に立ち向かっていかなければならない恐れというものあったでしょう。
 しかし、神は、そのヨシュアに「おそれるな、強く勇ましくあれ」と言われるのです。そしてそれは、神ご自身がヨシュアと共にていてくださるからだというのです。神ご自身が私たちと共にいてくださる。たとえ私たちが弱くても、神は何ものにも去って強いお方です。その神が私たちと共似てくださる。だから「恐れなくてもいい。強く勇ましくありなさい」と言われるのです。
 そして、おなじことをイエス・キリスト様も言われる。新約聖書のマタイによる福音書2816節から20節において、これからイエス・キリスト様を証しし、その教えを伝え、宣教していく弟子たちに、「見よ、私は世の終わりまで、いつまでもあなたと共にいるのである」と言われているのです。

 この言葉、ペテロやヨハネをはじめとするイエス・キリスト様の生涯を目撃した弟子たちの心に深く刻み込まれたのではないかと思います。確かに、イエス・キリスト様は十字架に付けられて死に、葬られ、三日目に死人の中から蘇り、天に昇り全能の父なる神の右の座にお座りになりました。ですから、「見よ、私は世の終わりまで、いつまでもあなたと共にいるのである」と言われても、実際にイエス・キリスト様のお体が私たちと共に在るのではありません。
 けれども、イエス・キリスト様は聖霊なる神を私たちのところに送って下さると約束してくださいましたそして、その約束通り、聖霊なる神が、私たちと共にいてくださるのです。この聖霊なる神が共にいてくださるということのゆえに、イエス・キリスト様の弟子たちは、迫害の中にあって怖さを感じることがあっても、それを乗り越えて行くことができたのです。

 みなさん。あの旧約聖書のヨシュアのように、新しい世界、新しい状況に出ていくとき、不安や恐れが私たちの心に浮かんできます。また、迫害の中置かれたイエス・キリスト様の弟子たちのように、試みや試練が訪れたときにも、同じように恐れや不安が私たちの心を支配するでしょう。
 でも、神は、そのような中にある私たちと共にいてくださるのです。みなさん。神は決して私たちを見捨てるようなお方ではありません。いつでも、どんな時でも私たちと共にて下さり、私たちを慰め、支え、「強く、勇ましくありなさい」といって、私たちに生きて行く力を与えてくださるお方なのです。そのことを心に覚えて、神と共に生きる者であって欲しいと願います。お祈りしましょう。

2019年4月5日金曜日

2019年03月17日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 キリストの聖さに生きる 」 (ヨハネから)

2019年03月17日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・レビ記 第11章 44節 - 45節
・ヨハネによる福音書 第17章 17節 - 20節
・コリント人への第二の手紙 第3章 18節

説教題 「 キリストの聖さに生きる 」 (ヨハネから)


2019年3月10日日曜日

2019年03月03日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 真の信仰の本質とその形成 」

2019年03月03日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・創世記 第12章 1 - 5節
・マタイによる福音書 第10章 5 - 14 節
・使徒行伝 第4章 34節 - 第5章 11節

説教題 「 真の信仰の本質とその形成 」




19 3月第1聖餐式礼拝説教題「真の信仰の本質とその形成」        19.3.3
旧約書:創世記121節~5
福音書:マタイによる福音書105節~14
使徒書:使徒行伝434節~511

 今日の礼拝説教の中心箇所となる使徒行伝の記述は、一読するとギョッとする箇所です。と申しますのも、この使徒行伝434節から511節に記されている物語には、イエス・キリスト様が十字架に付けられ死なれ、よみがえられて弟子たちに現れ、神の国についての教えを語られた後、エルサレムに建てられたもっとも原初の教会に起こった悲惨な事件を伝えているからです。

 その悲惨な事件とは、アナニヤとサッピラいう夫婦が、神を欺いたために死んでしまったという出来事ですが、事の次第は次のようなものでした。
 イエス・キリスト様が死からよみがえり、天に昇った後に最初にエルサレムに建て上げられた教会の中には、多くの信徒たちが自分の持っている財産を持ち寄り、共同生活をするそのような群れが見好き上げられていました。もっとも原初のイエス・キリスト様の弟子たちの多くは、ヘブル語でアム・ハー・アーレツと呼ばれるユダヤの民の中では最も貧しい階層の人たちでした。
 もちろん、中にはザーカイのような財産を持っていた者やニコデモ、あるいはアリマタヤのヨセフと言われるような身分の高い人もいただろうと思いますが、しかし、その大部分は必ずしも裕福な階級の人たちではありませんでした。そのような中で、地所や家屋を持っている人たちは、その地所や家屋を売い払って、教会に献金をし、教会で共同生活をしていた人々の群れに加わっていったのです。
 クプロ生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバと呼ばれていたヨセフもそのような人のひとりで、自分の持っていた畑を売り、それを使徒たちの下、つまりできたばかりの教会に持ってきて献金したのです。
 ところが、アナニヤとサッピラの夫婦もバルナバと同じように自分の財産を売り払いその一部だけをもってきて、教会に献金したのです。そのようなアナニヤとサッピラの行為が神を欺く行為であったということで、二人は死んでしまったというのです。

 みなさん、私たちはこの事の表面だけを見れば、神を欺こうとするならば死んでしまうとのかとか、持っているものを全部奉げなければ死んでしまうのかなど思い、ギョッとする思いになったり、恐ろしく感じられるかもしれません。単に売り払った代金の全部を捧げなかったことで死に至ったというのだとしたならば、それはあまりにも厳しすぎるからです。もちろん、聖書は皆さんに、そのような聖書の読み方を求めてはいません。
 むしろ、この物語の背後にある霊的な意味を汲み取って欲しいと願っている。それはまさに、私たちに真の信仰とは何か、そしてその信仰はどのように形成されるのかということを教えてくれるものです。

みなさん、確かに聖書はバルナバが所有していた畑を売り、その代金を使徒たちの足元に置いたと聖書は記しています。しかし聖書は、このとき、バルナバがどれくらいの金額のものを捧げたかについては一言も触れていないないのです。ゲスの勘ぐりをするならば、畑を売ってその代金を捧げたというのですから、それなりの額のものであったろうと思われます。
しかし聖書は、そのようないくら奉げたかという額のことを問題にしていません。むしろ、聖書が関心があるのは、どのような信仰の思いでバルナバが献金をしたのかに目が向けられていると言ってもよろしいかと思います。それは、あの神を欺いたといわれるアナニヤとサッピラの夫婦の態度と比較することで明らかになってきます。そして、その明らかになって来るものこそが、神を信じる真の信仰とは何かを私たちに教え、その真の信仰がどのように形成されるのかということを私たちに教えてくれるのです。

では、その三つとは何か?一つは神を信頼する心であり、二つ目は神に対する真実な心であり、もう一つが遜りの心だと言えます。そしてこの遜った心が、私たちの信仰を形作っていくのです。

そうです。みなさん。信仰というもの、何よりも、神を信頼することです。そのことを、今日の聖書の箇所は私たちに教えています。というのも、自分の持っている財産を売り払い、それを教会に奉げ、共同生活に入るということはそうそうできる簡単なことではないからです。少なくとも、現代に生きる私たちの目にはそのように思えます。
それを、あのエルサレムにあった原初の教会の人たちは行ったのです。そバルナバもその一人でした。当然、そこには神に対する信頼がある。それは、すべてを神の前に差し出しても、神が養ってくれるという信頼であり信仰です。そしてそのような信仰こそ、イエス・キリスト様が弟子たちに教えたことでもありました。

先ほど司式の兄弟にお読みいただきました新約聖書のマタイによる福音書105節から14節は、イエス・キリスト様が弟子たちを伝道旅行に送り出す場面を描いたものです。イエス・キリスト様は弟子たちを送り出すにあたってなんの報酬も求めず、また「財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな」と言われるのです。

ここで言われている財布とは、私たちが持っているような財布ではなく、胴巻きのような腰帯であり、旅行のための袋には食料や生活必需品が入った袋です。また、下着も靴も杖も乗っていくなというのは、旅のために新しいものを用意する必要がないということで、要は、伝道旅行に出かけていこうとする弟子たちに、何の備えも準備もいらないというのです。そしてそれは、「働き人がその食物を得るのは当然」だからだというのです。

この言葉の背景には、当時のユダヤの社会では、神の言葉について教えさとすラビと呼ばれる人に対して、人々は、そのラビを家に迎え入れお世話をすると言うことが、ごく普通に行われていたという背景があると思われます。それは、神の言葉を扱うものは、神の言葉に専念し、この世のことに心を配るべきではないと考えられていたからです。
しかし、確かにイエス・キリスト様の時代のユダヤの民の間ではそのようなことが行われていたにせよ、何の備えも準備もなしに出かけていくということは、大変なことです。ましてや、イエス・キリスト様の弟子たちを民衆がラビたちと同等に扱ってくれるという保証もありません。ですから、そこには不安や心配もあったでしょう。しかし、それをイエス・キリスト様は弟子たちに何も持たないで出ていきなさいと言われるのです。そこには、イエス・キリスト様の言葉に対する信頼と、旅に出た弟子たちを導き養ってくださる神への信頼が求められている。

みなさん、そのような神に対スル信頼は、旧約聖書121節から5節にあるアブラムの姿が模範となっていると言えるでしょう。この旧約聖書創世記121節から5節において、アブラムは神から

あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される。

と語りかけられ、その言葉に従って出ていきます。

「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と言われても、どこに行くかは知らされていません。けれどもアブラムは「 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう」という神の言葉を信頼し、旅立っていくのです。

 このように、聖書は一貫して神に信頼することを求めている。それは神を信頼するということが神を信じる信仰だからです。その意味では、バルナバは神を信頼し、アナニヤとサッピラは神を信頼しきれなかった。その対照的な存在が、ここに描かれている。

みなさん、アナニヤとサッピラは神を信頼しきれず、人の生活と人性を神に完全に委ね切れなったのです。だからこそ、自分の資産を売ったけれども、共謀してその代金をごまかし、一部だけを持って来たのです。もちろん彼らは、神を全く信頼していなかったというわけではありません。全く信頼していなかったら、初めから資産を売るなんてことはしなかったでしょう。けれども彼らは資産を売り払ったのです。ですから、神を信頼する気持ちはあった。あるいは信頼したいと思っていた。でも、信頼しきることはできなかった。
 そこには完全に神を信頼し、神に明け渡すことができない人の姿があります。神にすべてを明け渡し、自分の生活や人生を神にゆだね切れないでいるからこそ、彼らは資産を売った財産の一部を手元に残しておいたのではないか。そこには、彼らの不安や心配が見え隠れしているように、私には思えて仕方がないのです。

けれども、みなさん。私たちはこのアナニヤとサッピラの姿を笑うことも蔑むこともできません。なぜならば、私たちだって、神を完全に信頼しているかと問われると、「はい、信頼しきっています」と胸を張って言えないような弱さがあるからです。少なくとも、私は牧師でありますが、しかしその私にもそういう部分がある。

 みなさんはどうでしょうか。胸を張って「信頼しきっています」と言い切れるでしょうか。言い切れるとすれば、それはとても素晴らしいことです。でも、どこかに不安を感じたならば、このアナニヤとサッピラの物語は私たちの物語となってしまいます。 
 ところが、みなさん。たとえそうであっても聖書には希望があります。神の言葉である聖書をしっかりと読んで見ますと、聖書は神を信じきれない、信頼しきれないものを責めてはいないのです。使徒行伝の534節には次のように書いてあります。

   アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ。

 この言葉は、ペテロが語った言葉ですが、ペテロはここでアナニヤに「あなたの資産あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になった」と言っています。つまり、不安だったら、資産を手元に残しおいてもいい、心配ならば使徒たちに差し出さず、自分の自由にしていいのだとペテロは言うのです。
 では、どこに問題あったのか。それは、聖霊を欺き、共謀して代金をごまかしたという点です。おそらく、アナニヤとサッピラは、私たちは資産を全部売り払いました。これが、その全ての代金です。これを教会に献げますといって持って来たのでしょう。そのことが神を欺く行為であると言われている。それは、神の前に真実な姿ではないからです。

 みなさん。神の前に真実な心を持つということは、自分のありのままの姿で神の前に立つということです。先ほども申しましたように、私たちは、必ずしも神に信頼しきれないでいるときがある。不信仰になることもある。時には、神に顔を向けられないようなことをしてしまうこともあるのです。そんな弱さが私たちの中にある。
 そんな時、私たちはそのありのままの自分の姿で神の前に出ていくことが大切なのです。神の前に取り繕うことなく、ありのままの姿で、弱さや不信仰を持ったそのままの姿をさらけ出すことが神に対して信実な姿なのです。そもそも、神の前に私たちがどんなに取り繕っても、神は私たちのありのままの姿を知っておられるのです。ですから、私たちは人の前では取り繕うことはできたとしても、神の前に取り繕うことはできないのです。
 むしろ、神の前に取り繕い、何か良い者であるかのように見せようとすることは、神に対して不誠実で不真実なことなのです。

 みなさん、確かに信仰とは、神の前を信頼し自分自身を神に委ね生きる者となることです。しかし、現実の私たちは神に、神を信頼しきり、ゆだね切ることができないものです。ですから、どこかで自分の力や能力に頼ってしまう。そして、自分自身の弱さや不信仰で神につぶやいてしまうようなものです。けれども、私たちが、そのありのままの姿で神の前に立つ時、神は、そのような私たちを受け入れ、神の愛の中に包み込んで下さるのです。だから、真の信仰は、神の前にありのままで立つ神に対する真実さを求めるのです。

 みなさん、ギリシャ語の信仰という言葉ピスティス(πιστις)は、「信仰」という意味と同時に「真実」という意味をも持つ言葉です。つまり、真の信仰とは、神に真実であることなのです。なのに、私たちはどうして神の前に真実でいられないのでしょう。アナニヤとサッピラのように、これがわたしの全ての資産を売り払った代金ですといってごまかし取り繕うのでしょうか。
そこには良い者と見られたいという思いが私たちの心のどこかにあるからです。人によく見られ、神にもよく見られたいと思う。だから、ありのままの姿で神の前に立てなくなってくる。それは私たちの傲慢さのゆえなのかもしれません。みなさん、傲慢というのは、自分の真実の姿以上に自分を大きく見せよう、良く見せようとする心の誘惑です。その誘惑が、私たちと神との関係を壊してしまうのです。みなさん、私たちの傲慢な心は自分自身を尊大な存在にしてしまいます。そして、その尊大になった傲慢な心が、神と人との信実な結びつき断ち切り、神と人と関係を壊してしまうのです、そして、その神との関係が壊れてしまったところに死というものがある。

みなさん、このアナニヤのサッピラの死の出来事を見ますと、そこには、神の怒りや裁きという言葉が記されていません。ただ人々が恐れたとだけ記されている。それは、神との関係が壊れてしまったところに死が入り込んでくるからです。もともと、聖書において死は断絶を意味します。そういった意味ではアナニヤとサッピラは、神に対して真実さを欠き、自分自身を神の前により良い存在であるかのようにふるまった傲慢な心によって、自ら、神との関係を断ってしまった。そこに神との関係において死という断絶が起こり、自らの死という出来事を招いてしまったということもできます。

 みなさん、このことは、私たちの信仰形成のために大きな教訓を与えます。すなわち、私たちが、神の前に真の信仰を形成していくためには、私たち自身が、ありのままの姿で神の前に立つことが大切だということです。そのためには本当の私たちの姿を、自分自身が認め、それを受け入れる謙虚なことが必要です。決して傲慢にならず、ありのままの姿を認め、神の前にそのありのままの姿で進み出るのです。

神に対する信頼が弱く神にゆだね切れないものであっても良い。信仰者として足らないものであってもいい。何もできないものであってもいいのです。大切なことは、その弱い、至らない、何もできないありのままの姿で、「神様、私はこのような弱い至らないもので、何もできないものです。どうぞお憐れみ下さい」と祈り、神の前に立つこごです。そのとき、私たちは、私たちを愛し受け入れて下さる愛を知っていくようになる。そして、この愛を知っていくようになる中で、私たちは神を信頼する信仰が養い育てられていくのです。お祈りしましょう。

2019年02月24日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 父なる神の愛 」

2019年02月24日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・ホセア書 第11章 1 - 11節
・マタイによる福音書 第2章 15節
・ヤコブ書 第1章17節

説教題 「 父なる神の愛 」




2019年02月17日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 祈り、働け - 支え合う共同体として 」

2019年02月17日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・申命記 第14章 28 - 29 節
・マルコによる福音書 第10章 17 - 23 節
・使徒行伝 第4章 32 - 35節

説教題 「 祈り、働け - 支え合う共同体として 」



192月第3主日礼拝説教「祈り、働け―支え合う共同体として」    2019.2.17
旧約書:申命記1427-29節 
福音書:マルコによる福音書1017-23
使徒書:使徒行伝432-35

 今朝も、みなさんと共にこの礼拝説教を通して神の言葉である聖書の言葉に耳を傾けて聴きたいと思います。そこで、今日の礼拝説教の中心となります聖書個所である新約聖書使徒行伝432節から35節ですが、この箇所はエルサレムに建て上げられたもっとも原初の教会の姿の一断面を私たちに教えてくれている箇所です。
 その一断面とは、4章の32節に「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」とあるように、エルサレムにあったもっとも原初の教会に集っていたイエス・キリスト様を信じてキリスト者となった人たちは、ある種の生活共同体を形成し、共同生活をしていたと言うことです。
すなわち彼らは、自分が持っていた土地や家屋と言った財産を売り払い、それを持ち寄り、それそれの必要に応じて誰にでも分け与えた(35節)というのです。そして、そのような共同生活をしながら、使徒と呼ばれるペテロやヨハネと言った12弟子たちは、イエス・キリスト様ことを伝えていったというのです。

 私は、この使徒行伝332節から35節に見られるエルサレムにあった原初の教会が、どうしてここのような自分の財産を売り払い、それを持ち寄って誰にでも必要に応じて分け与えるというような生活共同体を築き上げていったのだろうかと考えさせられました。いったいその源泉はどこにあるのか。何をよりどころに、このような共同体が築き上げられていったのだろうか。
 そのとき、イエス・キリスト様のご生涯をつづった福音書に記されている一つの物語のことを思い出したのです。そして、それがこのような生活共同体を築き上げていったのではないだろうかと思わされたのです。それが、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた新約聖書マルコによる福音書1017節から23節に記されている出来事です。

 このマルコによる福音書1017節から23節において語られる物語は、一人の青年がイエス。キリスト様の下にやって来て「永遠の生命(せいめい)を受けるために何をしたらよいのですか」と尋ねることから始まります。そして、そのように尋ねる青年に、イエス・キリスト様は、旧約聖書に書かれている十の戒め、いわゆる十戒にある「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え」といった戒めを上げながら、要は律法を守り行うようにと教え諭します。
 するとその青年は、そういった教えは全て小さいころから守っていますと言うのです。おそらくそれは事実なのでしょう。しかし、その青年に対し、イエス・キリスト様は慈しみの眼差しを向けながら、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と言われるのです。

 イエス・キリスト様に「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と言われた青年は、その言葉を聞いて顔を曇らせ、悲しみながら立ち去ったのです。その青年が悲しみながら立ち去った姿をみて、イエス・キリスト様は、弟子たちに「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」と言われたと言うのが、この物語の概要です。
 みなさん、この物語の延長線上に、エルサレムにあったもっとも原初の教会において、イエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様に付き従って生きて行こうと決心し集まったキリスト者たちが、自分の持っている財産を全部売り払い、共同生活をし、それざれの必要に応じて分け与えていたと言う姿があるように思われて仕方がないのです。
 もちろん、この使徒行伝432節から35節にあるもっとも原初の教会の姿が、あのマルコによる福音書1017節から23節にあるイエス・キリスト様の下に「永遠の生命を得るためには何をしたらよいですか」と尋ねてきた金持ちの青年の話と結びつくと言う明確な根拠はありません。しかし、私にはこの二つの物語が重なって見えて仕方がないのです。実際、そこで語られている内容は極めて似ている。

 みなさん、この二つの物語は、一見すると私有財産を持つことが悪いことであるかのような印象を私たちに与えます。とりわけ、マルコによる福音書にある資産を多く持っていた青年がイエス・キリスト様の言葉を聞いて悲しみながら立ち去って行き、イエス・キリスト様が「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」と言われたなどと聞かされるとそのような印象を持っても仕方がないように思われます。

 しかし、みなさん。聖書がこの使徒行伝とマルコによる福音書にある二つの物語を通して言わんとしていたことは、私有財産を持つことがいいか悪いかという点にあるのではありません。むしろ聖書が言わんとしていることは、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」というイエス・キリスト様の言葉に集約されています。
 それは、イエス・キリスト様に従っていくもの、神の国の民となるものは、神を信頼し、神により頼みながら、自分のことばかりを考えるのではなく、自分の周りにいる人のことも顧みながら生きて行くのだということを教え諭す言葉なのです。

 みなさん、私は毎週の礼拝説教の準備をし、説教原稿を書き上げていく際に、その週にお話しする箇所についていろいろと調べます。もちろん、注解書やいろいろな参考資料を見たり、最近ではありがたいことにインターネットでほかの牧師が行った説教の原稿等を含めいろいろと見たりすることもできます。
 今回もこのマルコによる福音書の1017節から23節にある資産持ちの青年の物語についても、いろいろと調べました。その中で、ある牧師が持っているものをすべて売り払ってということは、ただ神のみに頼れということだと述べている文章に出会いました。私は、その文章を読んで、本当にそうだよなと思った。
 でも、インターネットに出ている情報は玉石混交ですから、私が本当にそうだよなとおもっても、それを鵜呑みにしてはいけません。とりわけ聖書を理解し説教をするわけですから、きちんと調べなければならない。ですので、ネットに書かれていたとしても、やはりそれなりに信頼のおける注解書や文献を見たり、原語であるギリシャ語を調べたりといろいろとするわけですが、「持っているものをみな売り払って」という言葉の背後に、「ただ神の御により頼む」ということを読み込んでいく理解は、そのような文献等を調べてみても決して無理な理解ではないようです。

 そして、そのように、「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施す」ということは、まさに自分の命までも投げ出して、私たちに救いをもたらそうとするイエス・キリスト様の生き方、それは単に行為だけでなく、その根底にある愛の精神に倣う行為と言えるのです。
 みなさん、私は、何度も「教会はイエス・キリスト様のからだである」とみなさんにお伝えしてきました。それは聖書が語ることであり、キリスト教会2000年の歴史の中で培ってきた教会観なのです。いや、それは教会観という単なる理念ではない、まさに実体として教会はイエス・キリスト様のからだなのです。だからこそ、教会はキリストと一つにつながるのだと言うことを示す洗礼を行い、キリストの体であるパンとキリストの血であるぶどう酒、あるいはぶどうジュースを食する聖餐を通して、神を信じる私たちひとりがキリストの体なる教会の一員であることを確認していくのです。
 そして教会は、そのようなイエス・キリスト様のからだなる教会であるからこそ、イエス・キリスト様が父なる神を信頼し、ご自分の全てを神にゆだね神に従って生きられたように、教会は、そして教会に集う私たちひとり一人は神を信頼し、自分自身を神にゆだねて生きて行くのです。そして、イエス・キリスト様が、自分のことだけを顧みるのではなく自分の全て、それこそ命までも十字架の上で投げ出して、私たちを愛してくださったように、教会は、そして教会に集うキリスト者である私たちひとり一人もまた他者を顧み、愛することを実践する者となっていく。
 あの使徒行伝432節において、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」と言われるもっとも原初の教会の姿、同じく3434節にある「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」という姿は、まさに教会がイエス・キリスト様のからだなる教会として、神を信頼し、イエス・キリスト様の生き方に倣って生きようとしていたその姿を現しているのです。

 そうなのですみなさん。それは、イエス・キリスト様に従っていくもの、神の国の民となるものは、神を信頼し、神により頼みながら、自分のことばかりを考えるのではなく、自分の周りにいる人のことも顧みながら生きていく者となっていくのです。それは、神の国が神の恵みと愛に支配されているところだからです。
 ですから、神の国というものが顕されるところでは、必ず、神を信頼し、神により頼みながら自分のことばかりを考えるのではなく、自分の周りにいる人のことも顧みながら生きていく生き方を求めてくる。

 例えば先ほど司式の兄弟にお読みいただいた申命記1427節から29節もそうです。そこにおいて、神から嗣業の地として土地を与えられ農業を営むことで生活の糧を得ていたイスラエルの民が、

   三年の終りごとに、その年の産物の十分の一を、ことごとく持ち出して、町の内 
  にたくわえ、 あなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないレビびと、および町
  の内におる寄留の他国人と、孤児と、寡婦を呼んで、それを食べさせ、満足させなけ
  ればならない。そうすれば、あなたの神、主はあなたが手で行うすべての事にあなた
  を祝福されるであろう。

と言われている。レビ人、それはイスラエルの民が神を賛美し礼拝するために仕える奉仕者であり、そのため、イスラエルの国の中においては土地を持たず、神を礼拝する勤めに専念するために選ばれた部族の人々です。また、寡婦や孤児もまた寄留の外国人も、イスラエルの国の中で、土地を持たず生きる術を持たない人たちです。神はそのようなの人々のことを顧み、あなたがたが神から与えられた地で得てものを、その人たちがちゃんと生きて行けるように分け与えてあげなさいと言うのです。それは、神がそのような人を顧みておられるからです。つまり神が王として治める神の国というのはそのようなところなのです。
 そしてその神の国は、あのエルサレムに建て上げられた原初の教会の在り方の中に受け継がれいき、中世においては修道院の姿の中に現れだされます。

 みなさん今日の説教題は「祈り、働け―支え合う共同体となるために」でした。「祈り、働け」とは、なんとも妙な説教題ですし、いったい「祈れ、働け」という説教題が、どう今日の説教に結ぶ付くのかといぶかんだ方もおられるだろうと思いますが、この「祈り、働け」というのは、中世の修道院、中でも最も模範とされるベネディクト会の修道院が掲げたモット―なのです。

 みなさん修道院というのは、本来は修道士たちが「この世」との関係を立って、ただ神を礼拝し、神と人とを執成すために共同生活をする場所です、ですから、それこそ人がいない、人が行かないまさに人里離れたところに建てられました。そしてそこで自給自足で生活したのです。だから、自給自足するための「働け」であり、また同時に、自給自足は生きて行くための術であり、修道士の本来の働きは神を礼拝し、神と人とを執成すことですから「祈れ」が修道士本来の使命です。だから「祈り、働け」なのです。
 もちろん、自給自足が原則ですから、「働け」といわれる修道院には様々な働きがある。それこそ、農作業もありますし、ワインを作るような仕事もある。また「祈れ」と言われる修道士の本来の働きをするために聖書の写本をすると言った仕事もある。そういった様々な働きの成果が修道士ひとり一人に平等に与えられていったのです。それが「祈り、働け」の精神であり、神の国にあって神の民として生きる生き方として捉えられていたのです。そして、そのような生き方こそが人となられた神であるイエス・キリスト様に倣う生き方だと考えられていた。
 ですから、中世の修道院の中では、キリストの人性、つまり人として生きられたイエス・キリスト様に生き方とその精神に倣い生きようと言う「キリストの人性への信心」という信仰の在り方が生まれてくるのです。神を崇め、ただ神の御に信頼を置き、隣人愛に生きると言う生き方を求める信仰の在り方が熟成していくのです。
 さらに後にはこの神のみに信頼を置き、神により頼んで生きて行くと言う生き方がより先鋭化されて托鉢だけによって生活に必要なものをえていくという托鉢修道会が顕われてきまし、中世から近代へ移行しようかという時代には、修道士として修道院の中だけで生きるのではなく、信徒として「この世」の職業に就いて働きつつも、その収入を持ち寄って共同生活をする生活協同兄弟団と言ったものが起こされて来ます。

 これらはまさに、時代時代の状況の中で神を信頼し、神により頼みつつ、自分自身のことだけでなく、他者をも顧みて互いに支え合いながら生きて行く神の国を、「この世」という世界の中で表していこうとする教会の在り方に対する試みであったと言えます。
その神の国は、今日(こんにち)の私たちの時代にも教会の在り方の中に表されていくべきものです。なぜならば、教会はイエス・キリスト様の体であり、教会の在り方が、復活のイエス・キリスト様を証しするものだからです。
みなさん、私たちはそのようなイエス・キリスト様のからだなる教会に召し出されているのです。それは、私たちひとり一人が教会にあって教会を支える存在であると同時に、教会を通して支えられる存在だと言うことです。
もちろん時代は、あのもっとも原初の教会と比べると複雑で産業構造や社会の様々な構成は変わってきています。ですから、私たちが使徒行伝432節から35節にみたような、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」と言われ「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」と言う在り方を現代の教会がそのまま再現することはできません。
しかし、その精神はしっかりと受け継ぎながら、私たちの出来る「共に支え支えられつつ生きる共同体」を「愛し愛される共同体」を築き上げていこうではありませんか。みんさん、私たちは今年の標語として「子たちよ、わたしたちは言葉や口先で愛するのではなく、行いと真実とをもってあいしあおうではないか」というヨハネ第一の手紙318節を今年の標語としてかかげ、「愛を表す」ということを今年のテーマとしました。それはまさに「共に支え支えられつつ生きる共同体」を「愛し愛される共同体」を目指すものなのです。