2019年4月6日土曜日

2019年03月31日 小金井福音キリスト教会 説教題 「 最後に神は勝つ 」

2019年03月31日 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・エステル記  第 6 章 1 節 - 11 節
・ヨハネによる福音書 第 1 章 1 節 - 5 節
・使徒行伝 第 5 章 29 節 - 42 節

説教題 「 最後に神は勝つ 」



193月第5主日受難節第4週礼拝説教「最後に神は勝つ」       2019.3.31
旧約書:エステル記6111節 
福音書:ヨハネによる福音書115
使徒書:使徒行伝52942

 今日の礼拝説教の中心箇所は使徒行伝533節から42節です。この箇所は、同じく使徒行伝521節から32節までに記されている。使徒と呼ばれるイエス・キリスト様の弟子たちの中心となっていた人々が、大祭司やサドカイ人、あるいはイスラエルの長老と言われるイスラエルの宗教的・政治的指導者たちの前で語った弁明を受けて、その指導者たちの中に何が起こったかが記されている箇所です。

イスラエルの民の指導者たちは、イエス・キリスト様の弟子たちが、イエス・キリスト様の教えを語り、またイエス・キリスト様の名によって様々な不思議な業を行っていることを快く思っていませんでした。聖書は、その感情を「嫉妬の念に満たされていた」と述べています。使徒行伝517節です。 
それは、イスラエルの民の多くの人たちが、イエス・キリスト様の弟子たちのところに集まり、その教えに耳を傾け、癒しの業に与っていたからです。つまり、人々の心がイエス・キリスト様の弟子たちを通してイエス・キリスト様に向かっていた。だから彼らは嫉妬の念に駆られたというのです。 
そのような中で、とりわけ、大祭司やサドカイ人、そして長老たちと言った人たちが、気にかけたのは、弟子たちが、まさにそのイスラエルの指導者層の人間が、イスラエルの民の救い主であったイエス・キリスト様を十字架に付けて殺したのだと言っていることです。それが気に食わなかったようです。

 使徒行伝52728節では、その彼らの気持ちが次のように記されています。

あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ。

「あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいる」とイスラエルの民の指導者たちはそう考えた。それは、彼ら自身がイエス・キリスト様を陥れ、人々を扇動して、十字架に付けて死なせるように仕向けたということを自覚しているからです。そして、事実そうであったのです。だから、「あの名を使って教えてはならない」と、きびしく命るのです。 
それに対するイエス・キリスト様の弟子たちの弁明が、先ほど司式の兄弟にお読みいただいた中の、使徒行伝529節から32節なのですが、彼らは、イスラエルの民の指導者たちの恫喝のような詰問に対して「人間に従うよりは、神に従うべきである」と言って、イエス・キリスト様の教えを語り、イエス・キリスト様のことを伝えることを止めないと、はっきりと意思表示をするのです。
 このような弟子たちの態度は、イスラエルの民の指導者たちの怒りに油を注ぎます。ですから、大祭司やサドカイ派の人々、また長老たちといったイスラエルの民の指導者たちは、イエス・キリスト様の弟子である使徒たちを殺そうと思ったと33節に書いてある。

 ところが、そのような殺伐とした雰囲気の中で、ガマリエルという人が立ち上がり、弟子たちをその場から外に出させて、語り始めます。このガマリエルという人は律法学者のひとりでした。律法学者というのはと呼ばれる旧約聖書に書かれている内容について詳しく学び、研究し、イスラエルの民に教え聞かせる働きをしていた言うなれば、旧約聖書の専門家です。そのガマリエルが、怒りに燃え上がっているイスラエルの民の指導者たちに、少し落ち着いて冷静に考えようというのです
 その内容が535節から40節に書かれていますが、要は「自分たちが、あのイエス・キリスト様の弟子たちを殺さなくても、もし彼らが言っていることが誤っているのならば、神が彼らを滅ぼしてしまうのだから、彼らのことはもう放っておこう」というのです。ガマリエルは、そのような彼の主張を、そのころ起こったチゥダとユダいう人の事例を上げながら述べる。

 このチゥダという人は、ヨセフスという1世紀の歴史家が記した『古代史』と言う書によりますと、どうやら自分のことをモーセかヨシュアと言った偉大な預言者に匹敵する存在であるかのように言っていたようです。そのチゥダの言葉を信じて多くの人たちが集まった。また、ユダという人物についてもヨセフスは書き記していますが、このユダは、イスラエルの民を奴隷化するローマ帝国に反乱を起こそうと人々を扇動していたようです。 
 この二人の人物は、神の名を掲げながら、その行動を起こした。しかし、そのチゥダもユダの試みも、結局ローマ帝国によってつぶされ、チゥダもユダの処刑されてしまった。ガマリエルは、それはチゥウがしたことも、ユダがしたことも神の名を使って行ったことであるが、実際は神から出てきたことではない。それは人間から出てきたことなのである。だから自滅した。同様に、使徒と呼ばれるナザレのイエスの弟子たちもまた「人間に従うよりは、神に従うべきである」と言って、イエス・キリスト様の教えを語り、イエス・キリスト様のことを伝えているが、それが神から出たものではなく人間からでたものであるならば必ず自滅する。

 逆に、もし使徒たちがいま行っていることが神から出たものだとしたら、それを阻止しようとする私たちが神を敵に回すことになる。そんなことをしたら滅ぼされるのは私たちだ。だから、ここは使徒たちがしていることを静観していようとガマリエルは言うのです。
それは、神が神であるならば、神がなさろうとすることは必ず実現するからです。なんだかんだといろいろあっても、最後の最後には神の御心がなる。結局最後に勝つのは神なのだ。それは極めて冷静な意見であり、ものの見方です。それは、極めて信仰的なものの見方であり、考え方であって間違っていない。そういって良いだろうと思います。

けれどもみなさん、私は、このガマリエルの言葉を読んだ時なんとも不思議な感じがした。そうでしょ、みなさん。だって、このガマリエルは、あのイスラエルの指導者たちがイエス・キリスト様を捕らえ殺そうとしてサンヘドリンの議会に引き出し裁判にかけ、更には民衆を扇動して、実際の十字架に磔にして殺させたとき、そのイスラエルの指導者たちのただ中にいたのです。だったらなぜ、その時に、同じことを言わなかったのか。私は不思議に思った。
 おそらくガマリエルは、イエス・キリスト様の裁判の時には、他の指導者たちと同じようにイエス・キリスト様を殺すことに同意していたのでしょう。けれども、今、ここで、そのイエス・キリスト様の弟子である使徒たちを裁き殺そうと議会がしている中で、ガマリエルはかつての時とは同じではないのです。冷静に、落ち着いて信仰的に物事を判断しようとしている。いったい何が彼を変えたのか。

 みなさん。あのイエス・キリスト様がイスラエルの民の指導者たちによって裁判にかけられた時から、この使徒たちが裁判にかけられる間に起こった出来事は、イエス・キリスト様の十字架の死です。それはイスラエルの指導者たちにとっては、一見、権力の勝利と思われるような出来事です。しかし、イエス・キリスト様の弟子たちは、その十字架で死んでイエス・キリスト様が復活し、天に昇ったと言って人々に語り聞かせ、イエス・キリスト様の名によって人々を癒し、不思議な業を行い、人々の心を再びイエス・キリスト様に向けている。
ガマリエルは、そのことを見ているのです。「父よ彼らをおゆるし下さい、彼らは何をしているのかわからないでいるのです」といって死んでいかれたイエス・キリスト様のお姿を見た。そして、そのように死んでいったイエス・キリスト様の語った教えは、弟子たちに受け継がれ、決して滅んでいない。またイエス・キリスト様の業も滅んではいない。確かにイエス・キリスト様は十字架に架かって死んだのですが、決して滅んではいないのです。その事実を。彼はイエス・キリスト様の証人となった弟子たちの姿を通して見ている。そしておそらく彼は考えたのでしょう。いったいこれは何事かと。そして、自分たちがしてきたことを振り返り、顧み、反省していたのではないか。私はそう思うのです。

みなさん、私は先日、アジア神学大学院の牧開学博士課程の学びを終え、論文を提出し、受け入れられました。この論文を書き始めた当初は、徳善義和と言うルター研究の日本における第一人者の方から指導を受けていたのですが、その徳善先生が、神学と言うことについて次のように述べておられました。

神学とは、神の自己啓示としての神の言葉に聞き従って、『我信ず』という信仰の立場で、キリスト教信仰を学問的に研究する、教会の学である。神学は、教会の宣教のために存在し、これに奉仕するまた神学は、教会の宣教を、聖書と信仰告白とに立って、批判的に検証する

 ちょっと難しい言い回しですが、みなさん、この神学を定義する徳善先生の言葉が私の心の琴線に触れた。とりわけ「『我信ず』という信仰の立場でキリスト教信仰を学問的に研究し、聖書と信仰告白に立って批判的に検証する」と言う言葉に引きつけられたのです。「避難的に検証する」とは、自分自身の持つ信仰を信仰者として問いなおすという姿勢です。つまり、神学とは、絶えず自分自身の信仰を振り返り、顧みて反省することだというのです。

 みなさん、神学は教会の宣教をただしく導くためにあると言われます。それは、神を信じる民が、キリストを証しするものとして正しく生きるためにあるということです。

 みなさん、私たちは過ちも多く、失敗も多くある。間違えることなんてしょっちゅうです。だからいつも、自分の在り方や行動、考え方を振り返り、それを反省する。それが信仰が健全に守られるために必要なことなのです。それはそうですよね。みなさん、反省の内信仰なんて怖いと思いませんか。
 間違ってもいい、失敗してもいい、そこでいったん立ち止まって、自分自身の信仰を顧み、問い直していく。それが反省するということです。だとすれば、反省しない信仰なんていやですし、反省の内信仰はとても怖い。

 ガマリエルは、イエス・キリスト様を裁判にかけ、十字架で死なせた日から、この日まで、イエス・キリスト様の証人として、イエス・キリスト様を証しし伝えているの弟子たちの姿を見ながら、自分のしたこと、考えてきたことを顧み、問うていたのだろうと思うのです。しかも、彼は旧約聖書に精通した律法学者です。ですから旧約聖書を思い巡らしながら、神からでた業と人間から出た業と言うことについて考えていたのでないかと思う のです。だとしたら、彼はいったい旧約聖書のどの個所を思い起こしていたのだろうか。
 そんなことを考えていますと、私はふと、先ほど司式者に読んだいただいたエステル記を思い起こしていたのではないかとそんな思いがしました。

 みなさん。このエステル記と言うのは、ユダヤ民族が滅ぼしつくされてしまうかもしれないという民族絶滅の危機の出来事が記されている物語です。それは紀元前盛期半ばから後半にかけて今の中近東を支配していたペルシャ帝国の王であったクセルクセス王の時代におこりました。
そこには、クセルクセス王の一番の側近であるハマンという人物が出てきます。このハマンが、モルデカイと言うユダヤ人が自分に敬意を払わなかったというので怒り、その怒りが高じてモルデカイはもちろん、ユダヤ民族すべてまでをも絶滅しよう計画が企てられるのです。まさにユダヤ民族抹殺計画が進められていく。

実は、私はこのエステル記を読むとき、いつも心が痛むのです。エステル記には、極悪人はハマンが出てくる。そう思うと、似たような名前である「濱」という名字をもつものとして、自分が攻められるような気がして心が重くなると同時に、自分は本当に罪びとなのだと、自分自身の信仰を顧み反省するのにもこのエルテル期は大変役立っているのですが、ともかく、この極悪人は万によって、ユダヤ民族の命は風前の灯となるのです。そのとき当時クセルクセス王の王妃のひとりとなっていたのが、あのユダヤ人抹殺計画の原因となったユダヤ人モルデカイの娘エステルです。
そのエステルによって、この民族絶滅の危機を逃れることが出来事のですが、先ほど司式の兄弟にお読みいただいたエステル記61節から11節は、まさにその危機的状況を脱することができた場面が書かれている箇所です。

 みなさん、エステル記と言う箇所は聖書の中にあって、唯一神と言う名が出てこない書です。しかし、神と言う名前は出てきませんが、この物語全体を通して、神は隠れた神としてイスラエルの民を守り、支えておられるのです。そして、ハマンと言う一人の人間の計画として出たユダヤ人抹殺計画をつぶし、その計画を立てた張本人のハマンを滅ぼされたという神の勝利の物語がこのエステル記と言う物語なのです。
 そういったわけで、あの使徒行伝5章に登場するガマリエルはこのエルテル期の物語を読み、思い巡らしながら、自らの信仰の在り方を問い直し反省したかのではないかと思ったわけなのですが、それがあっているかどうかは別にして、ガマリエル、それまでもの自らの在り方を顧み、問い直すという反戦を通して、人間から出た業は滅んでいき、最後には神の御心がなされるのだから、ここは、イエス・キリスト様の弟子たちを殺してしまうという過激な行動に出るのではなく、神がどうなさるのかを見守っていこうという冷静な、そして信仰的な判断ができたのです。

 その結果どうなったのか。聖書は、使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきて、毎日、宮や家で、イエスがキリストであることを、引きつづき教えたり、宣べ伝えたりしたと伝えています。イエス・キリスト様の教えと業は決して滅びなかったのです。それだけではありません。今日では何十億という人がクリスチャンとして神の言葉に耳を傾け、イエス・キリスト様を信じ生きているのです。
まさに、先ほどの新約聖書ヨハネによる福音書15節に「闇は光に打ち勝たなかった」とあるように、イエス・キリスト様は、「この世」という人の世に打ち勝たれたのです。だからこそ、イエス・キリスト様の教えは、人々の心を捉え、人々を神の国へ招いてきたのです。
ガマリエルは、最後に神の御心が成るということを自らの信仰を顧み、聖書に問うことで知りました。自分の信仰を反省することで最後に神は勝つという信仰の姿勢に至ったのです。それによって彼は、彼の言葉通り神に敵対するものとならずに済んだのです。

みなさん、信仰を顧み、反省する。それは、私たちが神の近づくための大切な営みです。私たちは失敗するし、過ちも貸します。間違うことも多々あるのです。しかし、私たちが、絶えず聖書の言葉に立ちながら自分の信仰の在り方、ものの見方、考え方を検証していくならば、私たちは神へと近づいて行くのです。神の子として神の子らしくなっていく。ですから、反省ある信仰生きて行きたいと思うのです。お祈りしましょう。



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