2019年8月18日日曜日

2019年08月18日 小金井福音キリスト教会 説教題「 sola gratia(ただ恵みによりてのみ)」

2019年08月18日 小金井福音キリスト教会 説教

【聖書箇所】
 ・イザヤ書 第52章1~6節
 ・マルコによる福音書 第3章28~30節
 ・使徒行伝 第8章14~25節

【説教題】
 「 sola gratia(ただ恵みによりてのみ)」


19年 8月第3主日説教「sola(ソラ) gratia(グラティア)(ただ恵みによりてのみ)」       2019.8.18
旧約書:イザヤ書521節~6節(旧約聖書p.1020
福音書:マタイによる福音書41節~11(新約聖書p.)
使徒書:使徒行伝814節から25(新約聖書pp.193-194)

 先週、私は東京キリスト教会で御用をいたしましたので、先々週の使徒行伝89節から13節からお言葉をお取次ぎさせていただいてから、丸2週間が開いてしまいました。その使徒行伝88節から13節には、シモンという魔術師が、様々な不思議な業を行ってサマリヤの人々を驚かしていたという出来事が記されていました。

しかし、聖書には、その魔術師シモンが行ったり不思議な業が何であったかに全く触れていません。私たちはそのことに着目し、同時に人々が、神の国とイエス・キリスト様の名について教えていたピリポの言葉を聞いた人々が続々とバプテスマを受けたという出来事に着目し、そこから、とかく目に映る衝撃的な出来事に目を奪われ、また心を奪われてしまいがちな私たちに、目に映るものではなく、神の言葉に耳を傾け生きることの大切さについて、思いをはせました。

 もちろん、なにか行いをするということ自体が悪いということではありません。神の国とイエス・キリスト様の名を伝えていたピリポも、汚れた霊につかれた人からその霊を追い出したり、中風の人を癒したり、歩けなかった人を歩けるようにしたりと、様々な業を行っていたからです。
 しかし、ピリポの行った業は、その業を通して人々がイエス・キリスト様というお方に目を向けさせ、神の言葉に向けさせるためのものでした。そこが、様々な不思議な業を行い、人々の関心を自分自身に向けさせていた魔術師シモンとの決定的な違いなのです。

 聖書はその魔術師シモンもまた、ピリポの語る言葉を聞いてイエス・キリスト様を信じ、ピリポの後をついて行ったと言います。そして、ピリポが数々のしるしやめざましい奇跡をおこなうのを見て驚いたと言うのです。そして今日の聖書箇所の使徒行伝814節から25節もまた、その魔術師シモンについて語ります。言うなれば、魔術師シモンのエピソード2と言ったところです。

 その魔術師シモンエピソード2では、ペテロとヨハネがピリポのサマリヤで伝道をおこない、人々が神の言葉を受け入れていると聞いて、サマリヤにやって来たことから始まります。そして、サマリヤにやって来たペテロとヨハネは、ただイエス・キリスト様の名によってバプテスマを受けただけで聖霊を受けていなかった人々に手を置き、聖霊を授けていったのです。

 魔術師シモンはその様子を見ていた。そして、ペテロとヨハネに金を差し出し、私にも人々に聖霊を授ける力をくださいと願うのです。当然、ペテロもヨハネも魔術師シモンの願いを拒否します。拒否するだけでなく

おまえの心が正しくないから、おまえはとうてい、この事にあずかることができない。だから、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいそんな思いをこころにいだいたことがゆるされるかもしれない。おまえには、苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。

と叱責しているのです。しかも「あるいはそんな思いを心に抱いたことが赦されるか知れないという」といいうようなかなり厳しい叱責です。いったい、なぜ、このような厳しい叱責の言葉を投げかけるのか。

 、おそらくそれは、魔術師シモンが、聖霊を授ける力を求めるという行為、しかも金品をもってそれを買い取ろうとしたことは、神を信じる民にとって極めて重大な問題であっただろうと思われるからです。
 というのも、ペテロとヨハネは、聖霊を授ける際に手を人々の上において聖霊を授けていたからです。キリスト教において手を置くという行為、それは按手と呼ばれ、権威と権限と力が受け渡されることを示す象徴的行為です。

 皆さんも、ご存知のように牧師が正教師として洗礼や聖餐といった聖礼典を執行することができるようになるためには、按手を受けなければなりません。それは、使徒から代々受け継がれてきた祭司としての権威と権限の伝達を示すものだからです。つまり、按手を通して、聖礼典を執行する権威と権限が与えられるのです。それは、その権限のもとで聖礼典を執行し、神の前に立つ人に神の救いの業がなされたこと宣言をし、人に罪の赦しと神の永遠の命が与えられたことを宣告することができるのです。ですから、牧師が按手を受けるということは、極めて重要なことなのです

 ペテロとヨハネは、人々に按手をして聖霊を授けていた。それは、ある意味で、人々に按手をし、祭司としての性質を与えていた行為であったと言ってもいいかもしれません。というのも、神を信じ神の民となった者は、すべからく祭司としての性質を持っているからです。宗教改革以降、プロテスタントの教会では、それを万民祭司性、あるいは全信徒祭司性といい、今日のカトリック教会では、信徒使徒職と呼んだりします。
 いずれにせよ、すべてのキリスト者は、按手をもって祭司としての性質を授けられているのです。そして、そのようにすべてのキリスト者が祭司としての性質をもっているからこそ、神の召しによって牧師の職に召された者は、按手を通して祭司の務めを行うのです。

 しかし、そう言われますと、今日ここに集っている皆さんは、自分はいつ祭司としての性質が与えられる按手をされたのだろうかと思われるのではないかと思われます。実際、信徒の皆さんに対して特別な按手礼といったものはありません。しかし、ここにつっておられるおほとりお一人は洗礼をお受けになっておられる。
 みなさん、ぜひ知っていただきたいのですが、実はこの洗礼のことを第一の按手と呼ぶのです。つまり、洗礼を通してひとりひとりに聖霊が与えられる。それがまさに第一の按手の出来事なのです。だから、洗礼は、父と子と聖霊の名によって授けられるのです。

 ところが、今日の使徒行伝816節を見ますと、サマリヤの人々はただ主イエスの名によってバプテスマ、すなわち洗礼を受けていただけであると記されています。主イエスの名ということの背後には父なる神がある。なぜならば、主イエス・キリスト様は神の独り子であり、この神の独り子は、全き神として父なる神をあらわすからです。

 ですから、主イエスの名によってバプテスマが授けられるとき、そこのは父なる神の名によってもバプテスマが授けられている。そしてそれによって、人々はイエス・キリスト様と一つに結び合わされてイエス・キリスト様の栄光に与ることができる。
 けれども、あのサマリヤでなされた主イエスの名による洗礼には、聖霊なる神の名が出てこないのです。だから、使徒であるペテロとヨハネは按手をし、彼らの聖霊を授け、祭司としての性質を与えて行ったのです。それは、使徒たちに与えられた権威と権限でしたした。

 その、権威と権限を魔術師シモンは得たいと考え、お金を持ってそれを買おうとしたのです。それは、教会にとっては教会を危うくする危険な行為です。というのも権威と権限というのは、ともすれば権力となるからです。なぜなら、権力は権威から発するものであり、権威が力を発することが権力だからです。

 だから、権力は正しい権威から発せられなければなりません。本来、権威を持つべきでないものが、権威を持ち、その権威から発せられる権力を行使することは極めて危ういことです。みなさん、今日は818日ですが、ほんの3日前に私たちは太平洋戦争の終戦記念日を迎えました。太平洋戦争は第二次世界大戦の一環の中にある戦争でしたが、その第2次世界大戦におけるヒットラーなどは、まさにその権威を持つべきでない人が権威を持ち、権力を行使した事例であると言ってもいい。
 しかし、なにもヒットラーを持ち出さなくても、教会の歴史の中にもそのような事例が多くある。たとえば、わたしは宗教改革期のキリスト教について研究し、聖書学院でも教えていますが、一般に宗教改革はカトリック教会の堕落した姿に対する、ルターの講義であると言われています。そして、その象徴として免罪符(贖宥状)の販売が挙げられます。

 しかし、実際はそうではなく、宗教改革はもっと神学的な問題が主題なのですが、しかし、その当時の教会の中に堕落した一面があったことは間違いがなく、それはカトリック教会でも問題になっていました。その堕落した一面というのがニコライズムとシモニアでした。

 ニコライズムというのは聖職者が妻を持つという聖職者妻帯の問題です。プロテスタントの教会では、牧師が家庭を持つ個とは禁じられていませんが、カトリック教会では聖職者は妻を持つことが禁じられていましたので、その聖職者が妻を持つということは大問題でした。それが、宗教改革の時代には横行していた。

 そして、もう一つのシモニアというのは、聖職売買のことで、金銭で聖職を売り買いしていたのです。たとえば、宗教改革期に、マルグベルグの司教であったアルブレヒドという司教は、そのマルグベルグの司教職も金で買い、更には、もっと権威のあるマインツの司教を手に入れるために必要な教皇庁に納める上納金を得るために免罪符を発行してお金を集めたというようなことが行われていたのです。

 みなさん、司教職というのは上級職者であり、いうなれば使徒職にあたるもので、按手をして祭司を任じる権威と権限を持つものです。その死教職がお金で売買されるような状況が生まれてきた時、その行為は確実に教会を腐敗させていきました。先細のアルブレヒドの例などはその一つの事例だといえますが、あの使徒行伝814節以降にある、魔術師シモンが、使徒たちが按手によって聖霊を与えるという使徒たちの権威と権限に基づく力を、お金で買おうとした行為は、まさにシモニア(聖職売買)に通じるものです。
 そしてその力は、聖霊を与える力であり、罪の赦しを当れる力ですから、それを金銭で売買するなどというのは、まさに先ほどお読みいただいたマルコによる福音書328節から30節にあるような「聖霊を汚す罪」に匹敵するような罪と思われても仕方がない行為です。それこそそれは、聖霊を与える力をお金で買うということは、聖霊なる神を売り買いするということであり、また神の恵みをお金で買う行為だからです。だからこそ、あのような厳しい叱責の言葉が出てきただと言える。

 みなさん、言うまでもないことですが、神の恵みはお金でかえるようなものではありません。今日の説教のタイトルは、sola gratiaです。これはラテン語で週報には日本語の訳も載せてありますが、「ただ恵みのみ」という意味です。
 このsola gratiaというのは、宗教改革の標語の一つですが、神の救いの業は、人間の努力や頑張りといった人間の側の働きによって手に入れられるものではなく、ただ神の恵みによってのみ人間が手にすることができるのだということを言い表しています。ただ神が私たち人間をあわれんで下さり、私たちをあわれんで下さるからこそ、私たち人間は神の救いに与ることができるのです。

 さきほど、司式者に旧約聖書イザヤ書521節から6節までをお読みいただきました。この箇所は、預言者イザヤが、神の裁きによって奴隷として捉えられてしまったイスラエルの民が神の恵みによって解放され、神の民としての立場が回復されるのだという歓びの訪れ、まさに福音を語っている箇所です。そしてそれは「あなたがたは、ただで売られた。金も出さずに贖われる」というように、ただ神の恵みとあわれみによって解放されるのです。
 みなさん、私たちはこの事を心に刻んで決して忘れてはいけないのです。でなければ、私たちは人間の力や能力に頼るものになり、力や権力を求めるものになるからです。しかし、私たちが求めなければならないのは、ただ神の恵みと憐れみだけなのです。

 なぜならば、それは決してお金で買うこともできませんし、何物をもっても交換することができるものではない神の賜物だからです。みなさん、私たちはしばしば賜物という言葉を神から与えられた何かの能力にように思ってしまいます。もちろん、確かにそのような使い方がされることがある。
 説教の賜物とか、癒しの賜物とか、教える賜物といった具合です。しかし、本当に賜物というのは、神ご自身です。神ご自身が聖霊なる神としてご自身を私たちに与えて下さり、私たちと日々共にいて下さり、ともに喜び、共に悲しんで下さる。これほど大きな賜物はないのです。そしてその聖霊なる神という賜物が、ただ神の恵みによって私たちに与えられている。


 ですから、みなさん、その神の賜物に対して私たちがすることは、ただ神を喜び神に感謝することです。みなさん、神に感謝しましょう。そして祈りましょう。静思の時を持ちます。

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