2019年5月10日金曜日

2019年05月05日 説教 小金井福音キリスト教会 説教題 「 神の民の始まり 」

2019年05月05日 説教 小金井福音キリスト教会 説教

聖書
・創世記 第12章 1 - 4 節
・ルカによる福音書 第1章 30 - 38 節
・使徒行伝 第6章 12 節 - 第7章 1節

説教題 「 神の民の始まり 」



0195月第一主日聖餐式礼拝説教題「神の民の始まり」     2019.5.5
旧約書:創世記121節~4節(旧約聖書p.
福音書:ルカによる福音書130節~38(新約聖書pp.)
使徒書:使徒行伝612節~71節(新約聖書p.

 今日の聖書箇所は、いわゆるステパノの説教と呼ばれるものの最初の部分です。ステパノの説教と言っても、いわゆる礼拝における説教とは違います。それは、ユダヤ人の最高議会、最高法院と言ってもいいかもしれませんが、その最高議会であるサンヘドリンと呼ばれる議会でステパノが、自らの信仰の正当性を述べた極めて優れた弁舌です。

 ステパノは、もっとも原初の教会で執事という役割を負った人でした。執事と言うのは、教会に集っている人々の食事や、その他もろもろのお世話をする役割を負った人たちです。そのような執事と呼ばれる働きをする人が原初のエルサエムの教会には7人いました。ステパノはその7人の執事の中のひとりです。
 そのステパノがユダヤ人の最高議会であるサンヘドリンで自分の信仰の正当性について弁明しなければならなくなったのは、ステパノが、リベルテンと言われるいわゆる奴隷身分から自由人とされ、ユダヤ教に改宗した人たちから訴えられたからです。

 そのいきさつが、先週の説教で取り上げた使徒行伝68節から14節の箇所に記されていますが、要は、ステパノとリベルテンの会堂に集っていたクレテ人やアレキサンドリア人等々の諸外国から来た人々、ですからおそらくはユダヤ教に改宗した改宗者であろうと思われますが、そのような人々と議論になった。

 この議論では、どうやらステパノの方が圧倒的に優勢で、相手はステパノに対抗できなかったようです。そこで議論に敗れた人たちが、サンヘドリンの議会に、偽りの証人たちに偽証をさせ、ステパノを訴え出たのです。
 そこでステパノは、その偽証に対して、弁明をしければならなくなったというわけです。そのステパノの弁明は71節から53節に渡る長いものですが、弁明と言うよりも、むしろ聖書を説き明かす説教のような内容になっています。今日の71節から7節までは、その長い弁明の最初の部分です。

 このステパノの説教の内容を一言で言うと、神の民の歴史を説き明かすものであると言えます。そして、そのようにステパノが神の民の歴史を説き明かしながら、みずからの信仰、それはイエス・キリスト様を救い主であり、私たちの主であると告白する信仰ですが、その信仰が、聖書の歴史に繋がるものであることを論証するのです。それは、今日、キリスト教と呼ばれるようになった信仰は、聖書の語る神の救いの歴史、神学的な言葉で言うならば救済史といいますが、その救済史につながり、それを担う信仰であるということを論証するものでした。

 みなさん、今日キリスト教と呼ばれれる私たちの信仰は、歴史を無視する宗教ではありません。歴史を大切にし、歴史を担い、歴史を形成する歴史的信仰です。それはもうすでに、このステパノの説教の中に現れ出ている。その信仰の歴史を語る説教を、ステパノは、まずアブラハムから始める。使徒行伝72節から4節の冒頭までに記された出来事です。

   弟たち、父たちよ、お聞き下さい。わたしたちの父祖アブラハムが、カランに住む前、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて3:仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。4:そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させた。

この出来事は、先ほど司式の方にお読みいただいた旧約聖書の創世記121節から4節にしるされていますが、実際の旧約聖書の記述と、ステパノが語った言葉とを読み比べますと、両者の間には微妙な違いがあります。と言うのも、ステパノは神が、アブラハムに、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。と述べたのちに、アブラハムはカルデヤ人の地を出てカランに住み、そこで彼の父が死んだと述べていますが、旧約聖書の記述をみますと、アブラハムが父と甥のロトと共にカルデヤ人の地を離れてカランの地に住み、そこで父が死んだのは、創世記1131節、32節に記されており、12章でアブラハムが神からの語りかけを聞く前の出来事になっています。
 つまり、ステパノの旧約聖書の引用は誤まっているのです。ステパノがわざと誤って引用したのか、それともステパノの勘違いだったのかわかりませんが、しかし、旧約聖書の記述の内容と異なっていることは間違いがありません。

 しかし、この異なる二つの歴史に関する記述を読み比べると、そこに新たな発見が生まれてきます。そしてそこに神がこのようなステパノの誤りをもお用いになっておられるその意図が見えてくるような気がするのです。というのも、創世記1131節を見ますと、アブラハムの父テラは、カナンの地に行こうとしてカルデヤのウルから出たとあるからです。つまりアブラハムたちは、最初からカナンの地、すなわち今のイスラエルの国があるパレスチナ地方に行こうとしていたのです。

 だとすれば、まさに、神がアブラハムを「今あなたがたの住んでいるこの地」と言われるカナンの地に移住させたのは、最初から神のご計画の中にあった出来事だったということです。まさに、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』と命じになった神の御意志とご計画は、アブラハムの父テラがカルデヤの地ウルを出たときから始まっていたということなのです。

 その神の御意思とご計画は、彼らがカランの地に住み着いたことで頓挫しそうになった。そのような中で、神はアブラハムに語りかけ、再びカナンの地へと導いて行かれるのです。そのことを思います時に、確かにステパノは旧約聖書の記述とは異なる誤った引用をしていますが、しかし、神の導きとご計画と言う視点から見てまいりますと、その誤りがかえって神のご計画と導きというものを伝えていると言えます。まさに、神はアブラハムと言う一人の人の人生に関わり、そしてその人生を最初から最後に至るまで導いておられるのです。

 それは、なにもアブラハムという特定の人物だけではない、すべての人の人生にかかわりを持ち、導こうとしているのです。もちろん、すべての人ですから皆さんもその一人であることは間違いがありません。同時に、その神の導きが頓挫しそうになることもあるのです。そういったことが、これから皆さんの人生に起こってくるかもしれない。

しかし皆さん、そのようなときにも神はあきらめることなく、アブラハムに『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』と呼びかけられたように、私たちに声をかけてくださるのです。大切なのは、その神の呼びかけに応答するか否かです。
 アブラハムはその神の呼びかけに答えたのです。ステパノは、そのことを「栄光の神が彼に現れて3:仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。4:そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ」と短く伝えています。

ここでは、先に旧約聖書に引用に置いて事の成り行きの後先を誤って伝えたステパノは、創世記12章にあるアブラハムの物語の重要な部分を削除しています。これも、意図的な削除なのか、ステパノがきちんと覚えていなかったのか定かではありませんが、ステパノが重要な部分を削除したことによって、神の呼びかけに応答するということとはどういうことかと言うことがより鮮明に浮き上がってくるのですから、聖書と言うのは本当に不思議な書物だと思います。

そのステパノが削除した部分が創世記12章の2節、3節の部分です。そこにはこうあります。

わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。3:あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される。

 皆さん、この言葉は、神がアブラハムに『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』と語ったすぐそのあとに言われた言葉です。つまり、創世記12章では神は、私があなたを導き、連れていく地で祝福をする。だから、あなたはあなたの土地と親族から離れて私の示す地に行きなさいというのです。

 ところが、ステパノはその祝福の約束を削り落とすのです。もちろん、ステパノの弁明を聞いているのはサンヘドリンの議員でありユダヤ人の思想社階級の人たちですから、聖書には通じている人たちです。ですから、ステパノが祝福の約束を削り取ってかたっていても、そこに神の祝福の約束がありことは無条件にわかるでしょう。
 しかし、それでもなお、あの神のアブラハムへの祝福の約束を削り取取られていることによって、神の言葉は神の言葉ゆえに従うことが大切なのだということが浮き彫りになって来る。神が言われることを聞けば、何かいいことがある。だから聞き従うというのではなく、神の言われる言葉だから従う。神の言葉は神の言葉だから従う。

ステパノが、あえて神の祝福の約束を削り、「『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ」と言ったその言葉は、神の言葉に聞き従うことが信仰だと言うかように私には思えるのですが、みなさんはどうでしょうか。

と申しますのも、ステパノは、神の言葉に聞き従いカナンの地にやって来たアブラハムは、そのカナンの地では「遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった」と言っているからです。この表現は、かなり誇張された表現です。創世記24章を2節を見ますと、「アブラハムは自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った」と言う記述があるありますから、アブラハムはそれなりの財産を持っていたようです。

にも関わらず、ステパノは敢えて、「遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった」と言うのです。そしてその上で「ただ、その地を所領として授けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかったのに、その子孫とに与えられたのである」というのです。

皆さん、こうして考えてみまてすと、ステパノは、「神を信じる信仰の原点にあるのは神の言葉に聞き従う信仰だ」とでもいうかのようにして、あえて祝福の約束を削り、神の言葉に従って神が導いてこられた地にやって来ても、何も得られなかった。得られたのはただ子孫が反省するという約束だけであったと言っているかのようです。そして、そのようなアブラハムの物語を神の民であるイスラエルの民の信仰の歴史の始まりに持って来た。

ステパノは、そのようにして、「神の言葉に聞き従う信仰から神の民の歴史の始まったのだから、信仰の原点は、神の言葉に聞き従うことなのだ」と言うことを私たちに語っている。そしてそれは確かにそうなのだろうと思うのです 
そしてそれは旧約聖書に歴史に繋がる新約聖書の歴史も、まさに神の言葉に聞き従う信仰から始まるからです。それが、先ほど司式の兄弟にお読みいただきました。ルカによる福音書130節から38節にある受胎告知の物語です。

このルカによる福音書30節から38節で、イエス・キリスト様の母マリヤは、まだ主所であり結婚もしていないのに男の子を生むと告げられます。その時マリヤは、「そんなことは起こりえない」と思いますし、そのように言います。

しかし、み使いの「神には、なんでもできないことはありません」と言う言葉に「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」といって、み使いが告げる神のご計画と神のご意志を受け入れるのです。そして、そこからイエス・キリスト様がお生まれになる。まさに神の言葉に聞き従うマリヤの信仰から、旧約聖書の歴史に繋がり新しい神の民の歴史が始まったのです。

みなさん。このように神の民の歴史の始まりには、神の言葉、神の約束に聞き従うという信仰の原点があります。みなさんの信仰に原点はどこにあるのでしょうか。少なくとも、ステパノの説教は、神の民である私たちの信仰の原点が何であるかを示している。それは、私たちが神の言葉を信じ、神の約束を信じるところにある。

みなさん。私たちはキリストの体なる教会に繋がり、神の民とされた者です。このキリストの体なる教会のかしらであるイエス・キリスト様は十字架の死に至るまで、神に従い抜いたお方です。そのキリストの体なる教会に繋がる私たち一人ひとりは、あのアブラハムのように、またマリヤのように、神の言葉に聞き従う者となりたいと思います。お祈りしましょう。

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